国家が国民を売る.今も昔も国家ってヤツは。でも、人間の生き様ってヤツはそれをまた越えてしまう。
このじいさんたちを見よ。
2006/8/10
夏休みをとれる時期になり、みなさん、続々見て下さってます。
見たよとメール頂くのはほんとに嬉しいな。
さらに少なからず、「もう一度見る」とか「次は子ども(友達)と行く」という風にリピーターになって下さるのです。これは予想しなかったことです。ありがたい。
見たら誰かに伝えたくなる。伝えなきゃと思う。
そういう映画です。蟻は。
さて、今日は「男たちの大和」です。
誉めるのかけなすのか、どっちだ?
わが夫は戦艦大和がすきで、結婚して引っ越すこと4回。
プラモデルの箱を後生大事に持ち運んでます。定年して暇になったら丁寧に作るんだそうだ。
そんな大和ファンの夫、「男たちの大和」を見ないわけがありません。今回も初回限定のDVDセットをさっさと購入。夏休みの一日、観賞に及ぶわけです。以下感想。
思いのほか良かったといえる。
なかでも、今までみた多くの戦争映画の比べて、かなり善戦した戦闘シーンはよかった。こういうものができるようになった日本映画の技にまずは拍手。
さらに、この映画のテーマが「愛するもののために死ねるか」「国のために死ねるか」というものではないこと。これを確認しないと、この映画は可愛そう。
記者会見で記者が主演男優たち(反町、中村獅堂、渡哲也)に上の質問をしたという。かれらは「勿論です」と答えたらしい。それは見当違いだ。だって作中で「愛するものを何一つ守ることが出来なかった」と明言しているのだから。女たちは例外なく執拗なまでに「死ぬな死ぬな」と繰り返し、自分のために生きてくれる男をもとめる。死んでくれる男をもとめてはいない。
また丸裸でただ死に場所を求めて出港した大和の乗組員はだれひとり勝つと思っていない。「死ニ方用意」である。そのために誰一人、天皇陛下万歳とはいわない。母親や妻や恋人の名を叫ぶ。そして負けるとわかりつつ、いまここで負けなければ未来の日本の発展はない。そうでもしなければこの国は気付かないとこれまた明言している。つまり、彼らを死に追いやったものは国としての日本の無自覚、精神主義で乗り越えることができるとした日本の無自覚だ。
その考え方は、当時のものかどうかはわからない。原作者あるいは監督のものか。いずれにしても作品としての「大和」の立場はそのようなものだ。それなのに、なぜ「死ねる」と答えるのか。
佐藤純弥監督は「この映画はそういう映画ではない」と語気を強めて語ったという。
その通りと思う。この映画は死ぬことに意味を見いだせないという宣言だ。
つまり、この作品は現代から見た「大和の物語の解題」なのだ。
歴史的課題を扱う時に、事実の確認を争う場合もあるだろう。しかし、そうでない立場もあると思う。事実と記憶はちがう。人の記憶が事実通りでないのは明らかだ。私たちは自分の都合の良いように記憶する。また記憶と思いもまた違う。「捏造」された記憶がそのまま人の思いを反映しているとは限らないからだ。人は真に自分の望むことを意識できはしないのだ。だから後代のものは解題が可能になる。あるいは必要になる。
人々は何を考えていたのか。どうやってあの時代をいきたのだろうか。あるいは死んでいったのか。そこを私たちは想像するのだ。
今日、「日本鬼子」を見た。闘った人は今もいきて、自分の体験を語る。
しかも非常ににこやかに。
見るべきはおそらく、彼らの過去の残虐な振る舞いではない。
燃やすものがなくなって、生きた赤ん坊を焚き火に投げ込んだという事実を、にこやかに語る彼らの現在をこそ、問題にするべきだ。
彼らは、なにゆえに「にこやかにしか」語れないのか。事実はもう十分語られている。しかし、それを行った人間の現在は全く語られていない。そこを語らねば、歴史はまた繰り返すだろうと思う。私たちが学ぶべきことを学ぶまで繰り返されるだろうから。
「蟻の兵隊」はにこやかに語らない奥村和一の現在を描いている。
そこが、すぐれているのだ。
それにしても「大和」は最後の敬礼は余計だった。
エンターテイメントとしてはしかたないのか?
投稿者: たけやぶ。
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