説教を志す者は、このような(説教に行き詰るという)閉塞状態を承知している。「だがわれわれは人間であり、それゆえ神については語り得ない」。それゆえに、すべての説教行為は、くり返して、思うようにならぬ行為、不適格な行為のように思われてしまうのである。
・・・だが、信仰と希望と愛とは諦めることがない。「終わりの日」に至る途上でも、「永遠の美」を求めて身をのばし、自分に不可能なことをなお試みる。だがそれは、聖霊が将来を先取りして与えてくださるものである。この言語にさまざまな可能性が乗り越えられるのは、異言においてである。異言とは、いましめを解かれた言語である。すでに、明日の世界を生きて語るのである。明日が、きょうここにある。世界を救済するあの美しさに、今ここであずかる歓びの声があげられる。われわれを捕らえて離さぬ言語を打ち破る。
・・・酷使されすぎた説教の言葉は、安息日を必要とする。休暇を必要とする。隣人の家への道をもはや見失った、疲れ果て、すり切れた言語は、休養を必要とする。・・・自分自身のもとに、そして、全世界の創造者なるがゆえに、全言語の創造者であられる方のもとにとどまる必要がある。言語の麻痺は、それが癒されることを求め、その死は再生を求めるのである。
それゆえにわたしは、異言を、人間のために存在する言語と呼びたい。異言によって、言語はその自由を祝う。この祝いのぜいたくな喜びの中で、いっさいの行為による義を拒絶する。そのようにしてこそ、休養もでき、新しくもなることであろう。自分のためだけの存在となる時、「隣人の家」に至る途上にあるべきだとの強制から自由になるところで、言語は新鮮な力を回復するのである。それゆえにまた、異言は、短期休養回復のためばかりでなく、言語による滅びを突き抜けて生きるためにも必要なのである。死の如き沈黙とか、雑然たる騒音の如き言語の死ではない。新しい言語である! ここに言語は、自分の祭りを祝う。ここに、果てしなき道に酷使され果てることはなくなる。自分のために、自分の語り手と自分の創造者のために存在することになる。
ルドルフ・ボーレン
Rudolf Bohren
ルドルフ・ボーレン著、加藤常昭訳『説教学I』
東京、日本基督教団出版局、1979年