待つことに、子どもは我慢できない。待つことに、大人は失望する。待つことは、十字架の聖ヨハネが書いた「魂の暗夜」の経験に重なる。
スー・モンク・キッド著『心が待つとき』を読んで、わたしは、待つことに新たな意義を見い出した。待つことは、心から受け入れさえすれば、途方もなく創造的な場所になる、と著者は言う。
聖書では、待つことは、ほとんどが、希望の内に待つことであって、希望がない状態ではない。未知の状況で、じっと期待し目を覚まして待つことは、次に途方もない創造性が出現する始まりである。希望と、待つことは、互いに手を取り合い、わたし自身を支え、産みの苦しみの時を過ぎ行かせてくれる。
スー・モンク・キッドは言う。「待つという過程は、わたしたちを前に進ませるのではなく、内へと進ませる。」 それは、わたしたちをより深く、偽りのない姿へ至らせ、自由をもたらす。聖霊は、わたしたちを、前へ進むだけの競争から引き離し、魂を回復する内なる静かな水の流れへ向わせられるのだ。そのために、わたしたちは、覚悟して待たなければならない。
ダビデ王が詠んだ、魂を癒す静かな水辺のイメージは、待つ場所でもある。
「主は、わたしの羊飼い。
わたしには、何も、欠けるものがない。
主は、わたしを緑の牧場に伏させ
静かな水辺へと伴われる。
主は、わたしの内なる人を、癒される。」
ユダヤ教英訳聖書(CJB)
「カウンセラーのヘレン・ルークは、こう忠告する。わたしたちが、静まる時を持たないなら、成長の可能性は消え失せ、退歩することになる。これはパラドックスであり、静かに立ち止まるときに、わたしたちは、もっとも深く進歩することが出来るのだ。」(スー・モンク・キッド『心が待つとき』34ページ)
待つとは、わたしにとって、静まって瞑想することだと気づかされた。静まるとき、自分の内に聖霊の臨在を感じ、全能なるお方が取り囲んでいてくださることに、気づかされる。神が、待つことへとわたしを導かれるとき、それは、「静まって、わたしが神であることを知れ」という御言葉を、リアルに味わうようにと、神が父としてわたしを招いておられるのだ。静まるとき、わたしたちの感覚は命へと呼び覚まされる。静けさの中で、わたしの魂は、静かな流れがささやく声に耳を傾ける。その声は、燃える生き方へと、わたしを導く。
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「ジャスト・エッチング」より