
キリスト教会は、あらゆる時代において、時代の出来事に関係を持っている。この教会は、主イエスによって支えられ、慰められ、励まされていることを、われわれは御言葉から聴いている。けれどもこの御言葉は、教会が支えと慰めと励ましを必要としていることをわれわれに思い起こさせる。教会がイエスに聴く時に、教会は時の中に生き、教会は時の中に起こったすべてのことと関係を持たされ、攻撃され、何事かを求められているのである。
人間が時を持っているということは、神が人間に、人間自身の決断と試みと行為のために、自由な領域を与え給うことを意味する。そして人間がこの領域において遂行する事柄を、われわれは「時代の出来事」とか「歴史」と呼ぶのである。神が人間に時を与え、時代の出来事にその領域を与える時に、神は自ら背後に退かれるわけではない。神は支配し給い、主として臨み給うのである。
けれども、神がどのように支配し、どのように主として臨み給うかは、われわれに隠されているし、またキリスト教会にも隠されているのである。もちろん、イエス・キリストにおいて死とよみがえりは、われわれに明らかにされている。そしてここから、キリスト教会は、時代史のただ中において、ある約束と責任を持っている。しかし、時代史そのものにおいて、神の意志と支配はわれわれに明らかにされておらず、隠されてある。われわれは、それを今は「鏡に映して見るようにおぼろげに見ている」のである(コリント前書13:12)。
けれどもこの御言葉は、神の支配が単純に見えないと言っているのではないことを、われわれに思い起こさせる。この御言葉は、「わたしたちは・・・見るであろう」と語っているのである。そして実際、われわれは時代の出来事・人間の力強い業・苦悩を、人間の決断・試み・行為の中に見るのである。こうしてわれわれは、開いた眼でもって、その中に遂行されている神の意志と支配を見る。それがわれわれの眼の前にありながら、それが何であるかを理解する眼を全く開いていないとするなら、われわれはそこで何も見ていないのである。
われわれの「眼」と「時代の出来事」における「神の意志と支配」との関係はこのようなものである。人はこのことを、一つ一つの文字で出来上がっている文章に比較することができる。われわれは、一つ一つの文字をよく見ることが出来る。一つ一つの文字は、ラジオや新聞が毎日われわれの前に繰り広げている人間の行為と経験という素材のようなものである。けれどもわれわれがそこで知らねばならないのは、そのすべては何かすばらしいものを示しているのではなく、ただ一つ一つの文字に過ぎない、ということである。われわれは、一つ一つの文字にあるアルファベットの発音を知らねばならない。そしてわれわれは、それらの文字によって書き表されている言葉を、組み立てねばならない。そのようにしてわれわれは、時代の出来事の中に、たとえそれが隠されていても、神の意志や支配を認識することができるのである。われわれがこのようにして時代を読むことができるかどうか、ということが、大きな問題なのである。
カール・バルト
カール・バルト「今日の時代におけるキリスト教会の約束と責任」(1948年)より
Verheitssung und Verantworthung der christlichen Gemeinde im heutigen Zeitgeschehen,1948
(『カール・バルト著作集第6巻』新教出版社、1969年、pp.444-445. 一部字句を補いました)