聖句 ガラテヤ4:3
文語訳 「かくのごとく我らも成人とならぬほどは、世の小学の下にありて僕たりしなり」
口語訳 「我々も未熟であった間は、この世のもろもろの霊の下に束縛されていた」
注解
「世の小学」(τα στοιχεια του Κοσμου)の意味如何については、種々なる説明がなされている。
στοιχεια は、(1)アルファベットの文字、従って、初歩的な教訓または知識を指す。ヘブライ5:12ではこの意味で用いられている。(2)天体、あるいは、礼拝の対象とせられた天体の霊を意味する場合も少なくない(現代ギリシャ語では「幽霊」の意だという)。ペトロ後書3:10では、この文字は明らかに「天体」を指している。この στοιχεια に του Κοσμου を付して用いているのは、ここ以外ではコロサイ2:8と20だけである。この熟語はギリシャ文学にも見出されず、全くパウロ独特の熟語であるといってよい。
そこで、この熟語によってパウロは何を意味したのであるか。多くの学者は前後の関係が、律法について述べているのであるから、これを初歩的宗教知識の意に解すべきであると主張している。古いところでは、テルトゥリアヌス、ヒエロニムス、エラスムス、カルヴァン等、この解釈を採っている。
しかるに、古代教父の大多数、ならびに現代聖書学者のある者らは、これを天体、もしくは天体の霊、の意に採っている。
私はこの第二の解釈に従い、「この世のもろもろの霊」と訳して見た。
ガラテヤ4:9においては、「神にあらざる神々に仕えた」状態に戻る事をば、στοιχεια に戻ることだとし、「日と月と季節と年とを守る」ことに言及している。また、コロサイ2:8-10は、天使(「政治と権威」とは天使のこと)礼拝に関連してこの熟語を用いている。さらに、新約時代の異教徒の間において最も勢力を持った宗教の一つは、天体礼拝であったことを念頭に置くとき、パウロがここに、天体もしくは天体の霊への礼拝に言及していると解することは、あながち不当ではないであろうと考えられる。
古代の異教徒にとっては、天体は地上の人間生活を支配し、運命を左右する活ける霊であった。従って、彼らは、この天体の支配から逃れんとしても免れ得ない、一種宿命的な存在に過ぎないと感じていた。わずかに、いわゆる占星術によって、天体の運行を予知することによって、不幸を免れようと努めたに過ぎなかった。べヴァン教授は、古代人の天体に対する畏敬というよりは、恐怖の念が如何に現実的であったかを説いている。彼らには自由がなかった。歓喜がなかった。天体への恐怖の下に全く奴隷のごとく打ち伏せられていたのであった。
この意味においては、ユダヤ人が律法の束縛の下にある状態に彷彿たるものがあった。すなわちパウロは、ガラテヤ人らが律法的生活に転向しようとするのは、あたかも、以前の天体礼拝的異教生活に逆戻りするのと、実質において何ら選ぶところがないのだ、と説いているのである。
なお、『ソロモンの知恵』13:1-7において、ストイケイアの礼拝を、偶像礼拝のはなはだしいものだとして、痛烈に批判しており、フィロンは異教徒とはストイケイアを敬う者にほかならぬと論じており、またステファノはその説教の中に、古代イスラエルが神と離れて、「天の軍勢」に仕えるに至ったことを、忌憚してることなども、我々の解釈を裏書するもののようである。
松本卓夫
松本卓夫『聖書思想解説叢書第二編 解説ガラテヤ書』日独書院、昭和13年、164-167ページ。
付記
新共同訳・旧約続編『知恵の書』(ソロモンの知恵)13:1-7
神を知らない人々は皆、生来むなしい。
彼らは目に見えるよいものを通して、
存在そのものである方を知ることができず、
作品を前にしても作者を知るに至らなかった。
かえって火や風や素早く動く空気、
星空や激しく流れる水、
天において光輝くものなどを、
宇宙の支配者、神々とみなした。
その美しさに魅せられて
それらを神々と認めたなら、
それらを支配する主が
どれほど優れているかを知るべきだった。
美の創始者がそれらを造られたからである。
もし宇宙の力と働きに心を打たれたなら、
天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、
それらを通して知るべきだったのだ。
造られたものの偉大さと美しさから推し量り、
それらを造った方を認めるはずなのだから。
とはいえ、この人々の責めは軽い。
神を探し求めて見いだそうと望みながらも、
彼らは迷っているのだ。
造られた世界にかかわりつつ探求を続けるとき、
目に映るものがあまりにも美しいので、
外観に心を奪われてしまうのである。