聖句 ヨハネ16:7-11
しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと。義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること。また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。
断想
1.「わたしが去って行く」と言われたキリスト。キリストは、もはや、世に居られない。わたしたちは、世において、キリストを見ることができない。
2.「キリスト不在」の場所。「神の不在」の場所としての「世」。
3.わたしたちは、「神の不在」という状況の只中に置かれている。「神の不在」の中を生きなければならない、わたしたち。
4.しかし、キリストは、言われた。「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる」と。キリストの不在は、わたしたちの益となる。なぜなら、キリストの不在が、「聖霊の現在」を、わたしたちにもたらすがゆえに。
5.キリスト不在。まさにそのことがもたらす、「聖霊の現在」の場所としての「世」。
6.キリストをこの目で見ることが出来ず、この手で触れることも出来ないという、不確実性。その不確実性ゆえの、わたしたちの逡巡、とまどい、恐れ、不安、懐疑。それら、わたしたちの「弱さ」。
7.その「弱さ」と密接不可分な関係にある「信仰」。信仰は、確かさの中に根ざしているのではなく、むしろ、「弱さ」の中にこそ、根ざしている。なぜなら、目で見ることが出来、手で触れることが出来るのであれば、信じること・信じ続けることは、もはや、要請されないのであるから。
8.キリスト不在。その不確実性が引き起こす、わたしたちの「弱さ」。そうして、キリスト不在の状況が延々と続く「世」。その世の中に置かれているわたしたちは、いつも・たえず・また・つねに、「弱さ」の中に生きざるを得ない。しかし、まさにその「弱さ」のゆえにこそ生じ得る、わたしたちの「信仰」。
9.キリスト不在・にもかかわらず・キリストを信じようとする「信仰」によって、わたしたちは「聖霊の現在」を体験する。聖霊の現在のしるしとしての「愛」と「喜び」。
10.「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(ペトロ前書1:8)
11.「聖霊の現在」の中で、弱いわたしたちの目に明らかにされる、「世の誤り」。
12.聖霊が明らかにする「世の誤り」とは、何か?
13.キリストが去って行かれたいま、「世」とは、いつも・たえず・また・つねに、「キリスト不在」の場所、「神の不在」の場所である。かくて「世」は、「神の不在」を声高に吹聴し、「信仰」の無意味を説こうと試みる。
14.「キリスト不在」の場所である「世」が、キリストを信じる「信仰」を、あからさまに否定しようとすること。それこそが、聖霊が明らかにする、「世の誤り」である。
15.「世」は、「キリスト不在」の場所であるゆえに、それはまた、わたしたちが「弱さ」の中に置かれ続ける場所でもある。そして、まさにその「弱さ」ゆえに、わたしたちが「信仰」によって生きるようにされる場所でもある。「キリスト不在」の場所である「世」は、本来的に「信仰」の場所である。
16.それゆえ、キリストは言われた。世の罪とは、「彼らがわたしを信じないこと」である、と。
17.「世」は、さらに・なおも・また、「キリスト不在」の場所であり続ける。「キリスト不在」という不確実性が、まさにその「弱さ」によってこそ確実になし得るところの、「信仰」による「義認」。キリストは言われた。「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること」である、と。
18.なぜ、「キリスト不在」が、わたしたちの「義認」を、確実にし・かつ・保障するものとなり得るのか? 「世」は、そのことを、信じようともせず、また、見ようともしていないのに?
19.キリストは、世に来られ、世はキリストを受け入れなかった。世はキリストを拒絶し、十字架につけた。
20.まさに、世によって殺されることによって、キリストは、わたしたちの罪の贖いを成し遂げられた。わたしたちの身代わりに十字架につけられたキリストは、墓に葬られ、陰府に降下し、三日目に復活し、四十日にわたって弟子たちに顕現し、天に昇り、神の右の座に着き、栄光を受けられた。かくて、キリストは世を去り、「世」は「キリスト不在」の場所となった。
21.「世」が「キリスト不在」の場所であるということ。それは、世が、キリストを十字架につけ、そのことによって、わたしたちの贖いがなしとげられ、かくて、使命を果たし終えられたキリストが、去って行かれた、まさにその去って行かれた後の場所が、ここ、すなわち、「世」にほかならないことを、示している。(あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ)
22.「キリスト不在」の場所としての「世」は、キリストが贖いのみわざを、いま・すでに、完成されておられる場所であり、それゆえ、この「キリスト不在」の「世」にあって、「キリスト不在」ゆえの「弱さ」の中で、なおも信じようとする者たちが、まさにその「弱さ」に根ざしている「信仰」ゆえに、間違いなく・確実に・義とされる、「義認」の場所である。
23.かくて、「キリスト不在」こそが、「信仰」による「義認」を確実にし・かつ・保障する、「しるし」である。
24.「世」は「しるし」を求める。しかし、「世」には「キリスト不在」という「しるし」のみが、与えられる。
25.「世」は、まさにそこが「キリスト不在」の場所であるゆえに、「信仰」による「義認」の場所である。しかし、「世」は、そのことを知らず、また、知ろうともしない。これが、「世の誤り」である。
26.この無知ゆえに、「世」は断罪される。「世」は、キリストを知らなかった。知っていたなら、けっしてキリストを十字架につけはしなかったであろう。しかし、「世」は、キリストを十字架につけた。キリストが十字架上で絶命した瞬間、この世の支配者、すなわち「世を支配する諸霊」は、罪に定められ、武装を解除され、キリストの足下に組み伏せられた。なぜなら、「世」は、罪のないお方を罪ありとして十字架につけ、そのことによって、自らを、罪の定めの下に置くこととなったからである。
27.「世」は、キリストの十字架によって、すでに裁かれ、この世の支配者、すなわち、「世を支配する諸霊」は、断罪されている。しかし、「世」は、いまだ・なお、滅ぼされてはいない。
28.断罪されていながらも、いまだ・なお、滅ぼされてはいない「世」は、現経綸において、ひとつの使命を帯びさせられ、キリストに対して奉仕させられている。それは、キリストが去った後の「キリスト不在」の場所において、信じる誰もが、「信仰」による「義認」を確実に受ける取ることが出来るよう、「キリスト不在」の場所を、きちんと整え、管理し、維持しておく、という奉仕にほかならない。この、「世界管理者義務」としての奉仕が、いまだ・なお、滅ぼされていない「世」に対して、課せられている。(カール・バルト『義認と法』)
29.信じる者が、ただ「信仰」によってのみ受ける「義認」は、確かに、「義認に仕える者」たちの存在を・また・その奉仕を、必要としている。「キリスト不在」の場所としての「世」が、適切に維持され、管理されなければ、「キリスト不在」の場所にあっては、誰も・また・どこででも、生存し続けることは出来ないのであるから。「天使たちは皆、奉仕する霊であって、救いを受け継ぐことになっている人々に仕えるために、遣わされたのではなかったですか」(ヘブライ1:14)
30.現経綸において、「義認」の恩恵が存続するためには、信じる者の生存だけではなく・これから信じようとする者すべての生存が、この世の支配者によって、適切に維持され、管理されなければならない。なぜなら、「義認」とは、信者が単に立場上「聖」とされるだけでなく、その実質においても「聖」とされることであるのであって、それが実現するためには、転機的聖化だけでなく、漸進的聖化もまた、必要とされるからである。転機的聖化と漸進的聖化とで構成される一連のプロセスとしての「生」は、個々人の生存が、「キリスト不在」の場所としての「世」にあって、安全かつ確実に保障されなければならないことを、要請する。
31.かくして、この世の支配者、すなわち「世を支配する諸霊」は、「キリスト不在」の場所としての「世」において、信じる者が誰でも義とされる「義認」の恩恵を確実にするために、「世」を適切に維持管理し、そのことによって、個々人の生存を保障するのでなければならない。これが、「キリスト不在」の場所、つまり、キリスト初臨とキリスト再臨の間の「中間時」にあっての、この世の支配者に課せられた「世界管理者義務」である。
32.「中間時」にあって「世界管理者義務」を忠実に遂行して、「義認」の恩恵に対して奉仕すること・それは・つまり・十字架と復活の主キリストに対して奉仕すること。これが・そして・ただこれだけが、この世の支配者、すなわち「世を支配する諸霊」の、現経綸における、唯一の存在理由となる。
33.そうして、「キリスト不在」の場所に、キリストが再び戻って来られる日、すなわち、「信仰」による「義認」へと万人を引き寄せ続けて来た神の招きが完了せしめられる日に、この世の支配者は、「世界管理者義務」から解かれ、その存在理由を終えて、かつて彼らを残らず罪に定めたもうたキリストの十字架の断罪に従って、処置を受け、滅ぼされることになる。「キリストが来られるとき・・・そのときに、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます」(コリント前書13:23-24)
34.その日、キリスト再臨の日、わたしたちは、わたしたちの内なる「聖霊の現在」が、わたしたちの外なる「キリストの現在」と完全に一致し、融合するさまを、目撃し、体験させられることとなる。「われもなく、世もなく、ただ主のみ、いませり」(ファニー・クロスビー)
画像:四世紀のカタコンベに描かれたキリスト頭部
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