聖潔の教師サムエル・ブレングル中将
Commissioner Samuerl Brengle
サムエル・ローガン・ブレングルは説教者としての一年目を終わった時、神学校で学ぶ決心をし、ボストンに移りました。彼はここで聖潔についての聖書の教えに興味を持つようになりました。それがいろいろな名前で呼ばれていることに気づきました。「きよめ、聖潔、全き愛、恩寵の第二のわざ、聖霊のバプテスマ、きよい心の祝福」等々。このことについて聖書を学び、他の学生たちと討論しているうちに、彼は自分でその経験をしたいと願うようになりました。
それは神の賜物というだけではないと、ブレングルは考えました。聖霊は神御自身であり、自分はそれを持っていないと、彼は考えました。彼は神ご自身を求めました。彼は学び、祈り、自分自身を吟味しました。手に持っているものを捨て、無心にならなければ、神ご自身をつかむことはできないと考えました。自分の高慢さを思い、イエスのへりくだりを思いました。イエスの純粋さという光の中で、自分の不純な心を吟味しました。自分の野心とイエスの謙遜に気づきました。自分がきよくないこと、そしてイエスのきよさを知りました。「私はイエスと自分以外の誰にも目を向けず、そして、自分を嫌うようになった」と彼は言っています。
ついに、ブレングルはこう祈りました。「主よ、私は、すばらしい言葉や、美しい文章を用いて、雄弁な説教者になりたいと思いましたが、口ごもり、どもったりすることで、雄弁以上にあなたに栄光を帰することができるなら、どうぞ私を口ごもらせ、どもらせてください。」 これが神に全く明け渡す最後の段階だったのです。彼は聖潔の経験をどうしても得たいと願っていたので、自分の最大の野心を祭壇の上に置くことができました。後になって、彼はこう言っています。「神が私をきよくし、私の内に住んでくださるならば、失敗者と見られても構わないと思ったのだ。」
今やブレングルは聖霊の臨在を実感することを期待しました。何事も起こりません。手も心も、全くからっぽの状態でした。どのようにしたらその祝福を手に入れることが出来るのでしょうか。
突然、昔からよく知られている言葉が、新しい意味を持って、彼の耳に聞こえてきました。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。」(ヨハネ一1:9)
その言葉はまるで明るい光のようでした。神は「真実で正しい方」だということを知って、信仰によってその祝福を受け取らなければならない、と彼は悟ったのです。彼はすぐ頭を垂れ、祈りました。「主よ、信じます。」 平安が彼の霊魂に満ちました。
それから二日後の朝、喜びが沸き上がりました。自然界が今までと違って見えました。彼は嬉し泣きをし、神を賛美しました。世界中をいとおしく思いました。通りを行く見知らぬ人、小さな子どもたち、小鳥、犬、馬までいとおしく思いました。道をはう小さな虫まで好きになったのです。
この輝かしい経験について、ブレングルは後になってこう言っています。「あの時以来、私はこの経験について疑いを持ったことはありません。その経験を失ったのではないかと思った時はありますが、その経験を疑ったことは一度もありません。それはちょうど、自分の母に会った、太陽を見た、朝食を食べた、そういうことを疑わないのと同じです。それは生きた経験なのです。
時に、神は感情を少し取り上げられました。感情によってではなく、信仰によって生きなければならないことを、神は私に教えてくださったのです。幾週間か、私は栄光の輝きの中を歩きましたが、栄光はゆっくりと減っていきました。翼をもって飛び上がる代わりに、走らなければならないということを、神は私にわからせてくださいました。じぶんがどんな気持ちでいようと、それには関係なく、神を信頼すること、神の尽きることのない愛に信頼をおくことを学ばなければならないのだということを、神は私に示してくださったのです。」
アリス・R・スタイルズ中佐
『聖潔の教師サムエル・ローガン・ブレングル』
救世軍出版供給部、29-34ページ