「諸権力の限界」
諸権力は、すでにその正体を暴露され武装解除されて、今にも退位させられる。この<すでに>と<いまだ>の間にある緊張が、新約聖書の使信全体を支配している。信仰にとってこの二つの極は何ら矛盾しない。
原則として、諸権力の限界は、キリストの教会という継続的存在の中で見られる。教会はこの世に存続することによって、諸権力のもとにとらわれた生命の不動の固定性を打ち破ってしまった。それはすでに古代文明において起こり、今日われわれが驚異の目を見張っていることである。教会は諸権力の欺瞞を見破り、主義に追従することを拒む人々からなっている。民族や文化という共同体の中に立ちながら、教会の存在は、諸権力が正当なものであるかどうか、を問いつづけるものになる。キリストの教会は、諸権力の支配が決して自明的でないことを、その信仰と生活とによって決定づける。教会は、既成の文化を当然のものとして無意識的にうけとろうとする反動性を、しめ出す回転木戸の役をする。
けれども、このことが起こる前に、教会とは別に、人間を神から引き離そうとする諸権力の企てが挫折して、もはや自らの隷属を許さず、惑わされず、脅かされない人間がでて、諸権力を制約するにいたる。教会の外にさえも、諸権力の制約をうけないような人間がいるが、それは諸権力が完全に挫折したからではない。そういう人間には、他の人間を治めている権力よりもさらに強力な権力、権力に対抗する権力が活動している。万物の上に立つかしらとして、教会に与えられたイエス・キリストに、諸権力が従属したと見られるところでは、何かまったく異なったことが生起してくる。諸権力はその挽回の活路を求めて、人間を抑圧し迫害するが、まさにその自暴自棄の行為において、諸権力の正体の暴露がくりかえし確認される。諸権力はその正体を暴露せざるを得なくなり、もはや神々として救済者として存在することを断念するにいたる。このようにして、キリストは諸権力を危機に陥れた。
諸権力が限界づけられたということには、さらにもう一つの重要な意味がある。キリストの出現以来、諸権力はもはやその目的を果たすことができなくなった。諸権力は自らの意に反して、万物を一つに集められたかしらに従属させられた。そこで諸権力は、なんとかして、キリストの主権のしるしを人間の意識から消却して、<偽りのメシア的反革命>によって、失地を挽回し、再び不動の支配をうちたてようと試みる。しかしこれは不成功に終わる。それどころか逆に、試みるたびごとに、神の御旨にかなうものだけが吸い上げられる。新約聖書にはこのような確信がみちているし、黙示録はそれを実証しようとする。
すべての反キリスト的諸権力は、結局は神の救いの計画にのみこまれる以外に道はない。いかに反逆しても、なお神の協同者にされる。創造において諸権力に託され、新しい創造において完全に回復される諸権力の機能は、キリストの勝利によって、すでに神の手中にある道具にされているのだ。
以上のような諸権力の限界と密接に関係するもう一つの限界が諸権力に加えられる。
神は諸権力の進路をくり返し阻止して、その支配に終止符をうたれる。時には拘束し、時には自由にして、キリストの凱旋行進に奴隷として引き回される。
今やその時は来ている。最後に発せられるあの大号令<止まれ動くな>が、キリストに敵対する者どもに、すでに今日くり返し発せられているのだ。たとえ、その大声がとどかぬところでも、諸権力が不承不承神の救いの計画にまきこまれるとき、キリストの進路をはばむ諸権力の号令<止まれ動くな>は、いかにも細く弱々しくきこえることだろう。
ヘンドリクス・ベルコフ「諸権力の限界」『キリストと諸権力』1969年、日本基督教団出版局、pp.48-52
※下線は山谷が付した。