バルタザール
いま、我々は後悔の念とともに、世界がついに非神話化し、純粋に世俗的なものとなったという宣言を聞く。
同時に、やはり、世界を全体的に聖体の神秘として、すなわち、キリストの神秘の体の延長として把える必要があるとの声も聞く。それは、中世の現実主義者たちが、そのキリスト教的世界哲学において提示した解答を全く飛び越えた、宇宙の神話化、「神聖化」である。
しかし(こうした単純な考え方では)、創造の業は、特にその進化の側面においてさえ、直接に神学的・秘跡的神秘としてとらえられてしまう。そして、先に述べた非神話化の働きにもかかわらず、全ての世俗的・地上的過程は、そのまま霊的なものとされてしまう。どういった点から見ても、そうした考え方は、「この世界での種々の過程はただ、人間の精神がそれをどう解釈し、理解するかにのみかかっている」ということを主張しているにすぎない。無神論的と言ってよいほど非神話化された世界はまた、神格化ともいえるほど神聖化された世界でもあるのだ。
しかし、そうしたことは、実は空しいことばである。キリスト者が、現代世界において自らを納得させるために用いる、騒々しいたわごとでしかない。現代世界は、自らの目のゴミをとるのが精一杯の、人畜無害のキリスト者などいなくても、立派にやっていけるのに。
世界と教会を区別する考え方を、心の中ではすでに、放棄しているのなら、いまだにその区別を維持しつづける振りをするのは、全く的外れである。一方で、「世俗」を「霊的な」と呼び、「霊性」を「世俗的な」などと呼んでおきながら、何かキリスト教的に深いことを言おうというのは笑止ではないか。
バルタザール
Hans U. von Balthasar
ハンス・ウルス・フォン・バルタザール『キリスト者とは誰か?』ニューヨーク、ニューマン出版社、1968年、pp.48-49.(グスタボ・グティエレス、関・山田訳『解放の神学』岩波書店、2000年、pp.78-79にて引照)