1759年の年会で、異なった見解が知らないうちに私たちの中に忍び込んでいる危険を察知して、再びこの教理を大がかりに検討した。しばらくして『キリスト者の完全の考察』を発行して、その巻頭に以下のような緒言を附した。
「この小冊子は、決して誰であっても好奇心を満足させるためのものとして記されたのではない。また、この教理を覆して嘲笑する人々に反論するために、この教理の全体像を提示する意図をもって記したのでもなく、無数の反論に、たとえそれが真面目な人からの反論でも、逐一答えるために記したわけでもない。私がここで意図していることのすべては、この題目に対して自分が考えていることを単純に開示することにある。私の理解の中で、キリスト者の完全は何を含んでいて、何を含んでいないのか、を明らかにする。そしてこの主題に関して実際的な観察と教示を若干加える」
問1 キリスト者の完全とは何か。
答え 心を尽くし、思いを尽し、力を尽くして神を愛することである。これは、悪しき気質や愛に反するいかなるものも魂のうちに残存していないこと、そしてすべての思いと言葉と行動が純粋な愛によって支配されていることを意味する。
問2 しかしこの完全が、弱さ、無知、誤りのいっさいを排除するというところまで認めるのであろうか。
答え 私は全くその逆のことを、絶えず主張し、これまでも一貫してそうしてきた。
問3 しかし、すべての思い、言葉、行いが純粋な愛によって支配されているのに、同時に無知や過失から免れないということがあり得るのか。
答え 私はここに何の矛盾も見ない。「人は純粋な愛に満たされていながら、いまなお過ちを犯しやすいものである」 事実私は、この死ぬべき身体が不死を着るまで(コリント一15:54)、現実的な過ちから解放されることを期待しない。これは、たましいが血肉のうちに住んでいることの当然の結果であると私は信じている。なぜなら、いまの私たちは、肢体の他の部分と同様に、傷を受けている諸器官のなかだちによってでなければ考えることができないからである。したがって、この朽ちるものが不朽のものを着るときまで、しばしば誤った考えに陥ることを避けることはできない。
この考えをさらに進めれば、判断における過ちは、おそらく実践における過ちを引き起こすことになろう。例えば、デ・レンティ氏の場合、禁欲の本質に関して偏った教育を受けたという過ちから、鉄の帯を身につけるという実践上の過ちを引き起こした。そのような例を何千となく引くことができるが、恵みの最も高い状態にいる人々の中にさえ見いだされるものである。だが、あらゆる言葉と行動とが愛を源泉としている限り、こうした過ちを罪と呼ぶのは適切ではなかろう。しかしながら、それは厳密な神の正義に耐え得ることはできず、贖いの血を必要としていることも事実である。
問4 この点に関して、1758年8月、ブリストルで会合を持った兄弟たち全員の判断は、いかなるものであったか。
答え それは以下のような言葉で表明された
(1)誰でも生きている限り過ちをおかすものである。
(2)判断における過ちは、実践の過ちを引き起こすことがある。
(3)そのような過ちはいずれも、完全な律法を犯したことに相当する。
(4)それ故、そのような過ちは、いずれも贖いの血潮がなければ、永遠の裁きにさらされることになる。
(5)どんなに完全な人でも、実際に犯した罪のために、絶えずキリストの功績を必要としており、兄弟たちのためばかりか自分自身のためにも、「我らの罪を赦したまえ」と祈っているのである。
他の方法では到底説明できなくても、これで簡単に説明がつく。私たちが最高位の愛について語る時には感情を害さない人でも、「罪のない生活」ということには耳を傾けようとはしないその理由は、彼らは、すべての人が判断においてばかりか実践においても過ちを犯しがちであることを知っているからである。しかし彼らは、もし愛が行動の唯一の原理であるなら、それは罪ではない、ということを知らないし、認めもしない。
ジョン・ウェスレー
ジョン・ウェスレー、藤本満訳、『キリスト者の完全』インマヌエル綜合伝道団、2006年、pp.123-126.