現代のキリスト教の霊性(スピリチュアリティー)をテーマとするブログです。霊的形成や礼拝に関わることがらで、心にとまったアート、祈り、リタジー、詩などを、エッセイと共に「スクラップブック」のように集めて行きます。



バルタザール
Hans U. von Balthasar


松本卓夫
松本卓夫『聖書思想解説叢書第二編 解説ガラテヤ書』日独書院、昭和13年、164-167ページ。神を知らない人々は皆、生来むなしい。
彼らは目に見えるよいものを通して、
存在そのものである方を知ることができず、
作品を前にしても作者を知るに至らなかった。
かえって火や風や素早く動く空気、
星空や激しく流れる水、
天において光輝くものなどを、
宇宙の支配者、神々とみなした。
その美しさに魅せられて
それらを神々と認めたなら、
それらを支配する主が
どれほど優れているかを知るべきだった。
美の創始者がそれらを造られたからである。
もし宇宙の力と働きに心を打たれたなら、
天地を造られた方がどれほど力強い方であるか、
それらを通して知るべきだったのだ。
造られたものの偉大さと美しさから推し量り、
それらを造った方を認めるはずなのだから。
とはいえ、この人々の責めは軽い。
神を探し求めて見いだそうと望みながらも、
彼らは迷っているのだ。
造られた世界にかかわりつつ探求を続けるとき、
目に映るものがあまりにも美しいので、
外観に心を奪われてしまうのである。

キリスト教の世界観とは
イエスがおられる場に依って立ち
イエスの権威のもとで
イエスの命の息を吹き込まれつつ
イエスの眼で世界を見ることです
ローワン・ウイリアムズ
Rowan Williams
Archbishop of Canterbury
G.B.ケアード『支配と諸力─パウロ神学研究』より
実にわれわれはみな
“神が─神ご自身が
われわれと語りたもう”
ということによって
生きるのである。
神が
“なんじらは神のものである”
と語りたまい
“なんじらに向かって伸ばされたのは
神の御手である”
と語りたもうことによって
生きるのである。
カール・バルト、エドアルド・トゥルナイゼン共著
井上良雄訳『イエスは主なり』新教出版社
1950年(原書1932年)
