今月の御言葉
神はわたしたち一人一人から
遠く離れてはおられません。
使徒17:27
わたしたちが、はじめて救いの喜びを経験したときのことを、思い起こしてみましょう。うれしくて、スキップして歩いたひと。心が躍る思いがしたひと。大空が澄み渡って見えたひと。興奮して、ふとんに入っても、なかなか寝つけなかったひと。いろんな「救いの喜び」の経験が、ひとの数だけ、それぞれあることでしょう。
しかし、喜びの経験が、いつまでもそのまま続くわけではありません。喜びのあとに、暗闇の経験、心が渇く経験、神の御臨在が感じられなくなる経験、というものを、通らされることが、あるのです。
このような、魂の試練のときを、十字架の聖ヨハネは「魂の暗夜」と呼びましたし、カルメル山の聖テレジアは「魂の荒み(すさみ)」と呼びました。
いったい、神さまは、わたしを一度救っておきながら、わたしを見捨てて、どこかへ行ってしまわれたのだろうか? 「魂の暗夜」にあるときは、ついつい、そうした疑問に心とらわれてしまうものです。
しかし、今月の御言葉にあるように、「神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」
たとい、わたしたちの魂が何ひとつ暖かいものを感じることが出来ないとしても、神は、わたしたちのすぐそばにいてくださって、静かに、ひたすら静かに、愛と恵みを注ぎ続けておられるのです。
古来「祈りの人」と呼ばれた聖徒たちは、「魂の暗夜」のうちに、大切な意義を見出して来ました。
それは、わたしたちが、見ゆるところに依らずして、見えざる神をなお信頼して生きることができるようになるための、「信心の訓練」である、というのです。
クローン病という難病で東京医科大学病院に入院しておられたポーリン・バンクス中将は、病室の窓の曇り空の景色を見ながら、こう言われたものでした。
「看護婦さんは、『この窓から富士山が見えますよ』と言ってくれました。しかし、毎日、空が曇っているので、わたしには何も見えません。あの曇り空の向こうには、確かに、富士山があるに違いないのです。わたしには、それが見えないのですが、見えなくとも、確かにそこにあるのだと、わたしは、信じます」
ポーリン・バンクス中将は、神についても同じように考えることができる、と言われました。わたしたちは、「魂の暗夜」のただなかにあって、何も見えず、何も感じることができなくても、神が確かにそこにおられると信じて、自分自身を神に、おゆだねすることができるのです。
そうして、「魂の暗夜」は、長く続くものではないことを、感謝しましょう。神は早晩、わたしたちを、試みのときから抜け出させ、明るい太陽の光のように、暖かく、確かな、神の御臨在の感覚を、もういちど、取り戻させてくださるのです。「信心の訓練」を経たわたしたちにとって、光と暖かさは、以前に比べ、より強いものとなっていることでありましょう。