聖書 マタイ5:12-16
1.聖書の時代、塩は平和の象徴として用いられていました。宴会が開かれたときなどは、場が和むようにとの願いを込めて、来客者一同に塩が配られたりしたのです。主イエスは、弟子たちに向かって、「あなたがたは、塩として存在している」と言われました。
2.キリスト者は平和をもたらす存在として、世に遣われています。それはけっして声高に説教することではありません。塩は、料理であれ、防腐であれ、用いられた場に溶け込んで、姿を消してしまいます。キリスト者もまた、世の中で目立たない、低くされた、片隅の存在でありながら、その置かれた場において、キリストの平和を作り出して行くのです。
3.今日の並行箇所には、「自分の内に塩を持ちなさい」と言われています。別の箇所では、「塩で味付けられた言葉を語りなさい」と勧められています。わたしたちの心の内を、キリストの平和が支配していること。また、わたしたちの舌が、柔和で寛容な言葉を語ること。それが求められていることです。そうでないと、わたしたちは、「塩気を失った塩」となってしまう危険性があります。
4.「塩気を失った塩」とならないためには、光を輝かせるのがよい、と今日の聖書は語りかけています。光を輝かせるとは、キリスト者であるわたしたちが、家庭の中で、近隣の中で、職場の中で、キリストをあかしすることでありましょう。
5.四百年前の日本には約60万人のキリスト者がおりました。しかし幕府の厳しい弾圧を受け、地下での潜伏生活を余儀無くされ、公然とキリストをあかしすることは不可能な状況となりました。しばらくは「隠れキリシタン」として信仰を維持していましたが、三世紀の間に信仰は徐々に消え、ついに、習俗として一部に形を残すだけとなったのです。
6.信仰と証しとは一体不可分の関係にあります。証しをやめてしまうと、「自分の内にある塩」すなわち信仰は、徐々に失われて行くのです。それこそが、困難な状況にあっても、なお、光を輝かせ続け、なお、証しを続けて行くようにと、わたしたちに勧められているゆえんです。
2005年7月17日(日)三位一体後第八聖日
説教要約
説教者 山谷 真 少佐