聖書 マタイ25:14-30
1.弟子たちが神殿を指して言いました。「何と立派な建物でしょう!」 しかし主はこうお答えになりました。「この神殿が跡形もなく破壊されるときが来る」 この言葉に、弟子たちは驚愕し、押し黙ってしまいました。
2.隣接する丘の上から、イエスは悲しげな面持ちで神殿を見つめておられました。三人の弟子がようやく沈黙を破りました。「いつ、その恐ろしい事が起きるのですか?」
3.こうしてイエスは、「世の終わりの事」を語り始められました。マタイ24章以下に記録されている三つの話には、いずれも共通点があります。「わたしたちには託された務めがある」こと。「主イエスが突然戻って来られる」こと。「託された務めを果たしたかどうか、再臨の主の御前で申し開きをしなければならない」ことです。
4.タラントの話には、今の価値で一億五千万円、六千万円、三千万円を託された、三人が登場します。三千万円を託された人は、「たったこれだけでは何も出来ない。下手をして失敗するより、このまま埋めておこう」と考えたのでした。この人は、「これだけあれば、いろいろ出来るに違いないから、精一杯やってみよう」という風に、肯定的に受け取ることは出来なかったのです。
5.わたしたちの人生は、自分の人生、というより、「神から託された人生」と言うべきでしょう。与えられた人生を精一杯生きてみよう、と思うのか。どうせ私は何をやっても駄目に違いないから、何もしないでおこう、と思うのか。そこに、「生きる姿勢」の違いが出て来ます。
6.主イエスが再臨されるとき、わたしたちは、いったい、どういう姿勢で人生を生きて来たのかを、問われることになります。そこで主がご覧になるのは、わたしたちが出した結果ではありません。主がご覧になるのは、わたしたちが「どういう姿勢で生きたか」ということです。
7.失敗を恐れて何もしないでいるのか。そうであってはならない。むしろ、失敗を恐れずに、前向きに生きてみなさい、と主はわたしたちに言われるのです。「生きるとは危険を冒すこと」という詩のとおり、わたしたちは勇気をもって生きたいものです。
「生きるとは危険を冒すこと」
笑うことは、馬鹿なやつと思われる危険がある。
泣くことは、感傷的なやつと思われる危険がある。
人を助けることは、面倒に巻き込まれる危険がある。
思いを率直に言うことは、本当の自分をさらす危険がある。
自分の考えと夢を人前で言うことは、
それが不意に終わる危険がある。
人を愛することは、愛しても愛してもらえない危険がある。
生きることは、死ぬ危険がある。
希望を持つことは、失望する危険がある。
挑戦することは、失敗する危険がある。
危険は、冒さなければならない。なぜなら、
人生における最大の危険は、
何も危険を冒さないことだから。
何も危険を冒さない人は、何もしない人、
何も持たない人、何にもなり得ない人だ。
その人は、苦しみと悲しみを避けることは出来ても、
何も学ぶことは出来ない、何も感じることは出来ない、
何も変えることは出来ない、何も成長することは出来ない、
何も愛することは出来ない、何も生きることは出来ない。
自分の確信によって縛られ、奴隷となっている、
自由を喪失している。
ただ危険を冒す人だけが、自由なのだ。
2005年7月24日(日)三位一体後第九聖日
説教要約
説教者 山谷 真 少佐