聖書 ヨハネ11:1-25
1.主イエスはラザロを、心から愛しておられました。しかしそうであっても、ラザロが死なないようには、おできになりませんでした。わたしたちも“イエスの友”として愛されている存在ですが、だからといって、わたしたちも、死を免れることはできないのです。
2.しかし、わたしたちがたとえ死んでも、主とわたしたちとの深いつながりは、決して断ち切られることがありません。わたしたちと主との結びつきは、死を越えて続いて行くものであるのです。「たとえ死んでも生きる」と、主が言われている通りです。
3.身近な愛する人を失う悲しみとは、「なぜこの人が死ななければならないのか? どうして死なないようにはできなかったのか?」という、決して答えられることのない問いがもたらす、心の痛みでありましょう。マルタの心もマリアの心も、この痛々しい問いで、占められておりました。
4.ところが主は、「あなたの兄弟は復活する」と、マルタとマリアに断言なさったのです。復活の日が来るのです。復活の日とは、「なぜ?」という、わたしたちの問いに、完全な答えが与えられる日でありましょう。
5.復活の日が来たならば、わたしたちはもはや、かさねて問うことはしないのです。その日わたしたちは、答えを知り、心の底から理解し、納得することが出来るようにされるのです。ラザロの復活を見た人々は、もはや問うことをしないで、主を信じました。イエスの復活を見た弟子たちは、主に対して何も問うことをしませんでした。
6.今日、わたしたちの「なぜ?」という問いは、いまだ、答えられてはいません。しかし、答えの半分はすでに、主の復活を通して、わたしたちに与えられているのではありませんか。すなわち、イエスは(1)死に打ち勝ち、(2)身体をもって復活し、(3)いまも、永遠までも、生きておられ、(4)そのイエスを信じるわたしたちをも同様に復活させてくだり、(5)その日、わたしたちには、悲しみも、涙も、嘆きも、もはや、ないのです。
7.「主よ、おいでください」(マラナ・タ)と、ひたすら復活の日を待ち望んでいきたいものです。
2005年9月11日(日)三位一体後第十六聖日
説教要約
説教者 山谷 真 少佐