国家が国民を売る.今も昔も国家ってヤツは。でも、人間の生き様ってヤツはそれをまた越えてしまう。
このじいさんたちを見よ。
2006/3/30
3/25の記事に対し、とほほさまより投稿を頂きました。
http://wind.ap.teacup.com/arinoheitai/19.html#comment2223
お答えしたところ、投稿欄の字数制限に引っかかってしまいましたので、記事とします。
投稿ありがとうございます。
舌足らずな表現をしてしまいました。
わたしは史実を明らかにするのは大切なことだと思います。今回の中谷さんのお話も興味深く聞きました。大勢の人数がうめられた小山の上にたち野犬の群れに追われるというお話を聞きながら、思わず床から足が浮いていました。床に(地面に)足をつけていられませんでした。したがって南京はなかっただの、従軍慰安婦はなかっただのという立場ではもちろんありません。ただ、その話を誰と共有するかという問題がのこされているのではないかと思うのです。
たとえば、次のような点がわたしは残念な点です。
蟻の兵隊の中で、奥村さん(映画の中心人物である山西省で売軍された元日本兵の方)とルバング帰りの小野田さんが靖国神社で出会います。このシーンは映画の中で非常に有意味なシーンです。小野田氏は靖国肯定で、奥村さんは靖国否定。その「イデオロギー的対立」が顕著になります。その結果、見るものは自分がどちら側のイデオロギーかということを迫られます。奥村さんの「侵略戦争美化ですか」という口調とそれに対する小野田さんの激高がそのような構造をつくります。 それがとても残念です。どうしてこの二人の戦争体験者がののしりあわなくてはならないのか。
わたしはお二人の豊かな経験が戦後日本体制の浅薄なイデオロギー対立に奪われてしまったという文脈で見たいのです。かれらは元々対立していたのではない。対立の文脈しか用意されておらず、そこに放りこまれたとのではないかと。
南京をまぼろし化しようとするような方たちの浅はかな言動は何をかいわんやです。国家のために死ぬことをあおるような言動は、国家というものの成り立ちを理解していない、感情論でしかありません。
しかし、人を殺した。だから悪い(確かに悪いのですが)それだけでは、鬼となって殺した人間が人間に帰ることを助けていないでしょう。今もなお自分の中の体験に蓋をして、語らな人々。その人にたいして侵略戦争を肯定するのか、という働きかけはあまりにも言語として未熟、あるいは無力ではないでしょうか。奥村さん共産軍の戦犯管理所で人間にもどりました。しかし、日本には戦後そのようなものはありませんでした。戦争体験者の魂によりそい、いたみを見つめ、
人間に戻る道に立つ営みは左右どちらもしてこなかったと思います。右は恩給という形で、鬼から人間の道を金銭化し、靖国という象徴に回収した。左はアジア諸国に悪いことをしたといい、アメリカに悪いことをされたといい、侵略と被爆という言葉だけで、相対的にしか自己把握していなかったと思います。旧社会党が北朝鮮を批判する視点を持ち得なかったことが良くそれを著わしています。
中谷さんの妹さんは、勿論反戦非戦の立場です。しかし、日の丸君が代肯定派です。わたしはその立場に清々しさすら感じます。
わたし自身思想的にはアナキズムをもって良しとしているので、日の丸君が代どころか、いかに民主的に制定された国家国旗にたいしても敬意を払うものではありません。
しかし、国家という存在を前提するならば、反戦非戦の立場で、戦争を日の丸君が代のせいにするのはおかしいとし、日の丸君が代を肯定するというのは筋が通っているとおもいます。中谷久子さんは自らの体験に照らして、率直に思いを語っておられます。
右なら、自由主義史観、日の丸君が代賛成、障害児教育は分離、郵政民営化賛成。etc
左なら、その反対。
この図式に小野田、奥村両氏はすっぽりはめられています。それは彼らの不幸であり、私たちの責任であるとはいえないでしょうか。
わたしはどのような言葉が鬼を人間にするのか、考えたいと思います。そしてそのような言葉は一般化できるのか。映画の中で、奥村さんが鬼に戻るシーンがあります。あのシーンの意味をもっとかんがえなくてはならないなと思います。
とほほさんもぜひ、ご覧ください。
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