2006/4/22
竹薮の国家観その3です。
教育基本法の改「正」はいかがなりや?どうしても愛国心というのを教育したいらしい。国旗国歌法のあたりから、その路線はあるが、<愛する人のために><死ねますか>この二つの節の間には<国家に命じられて>と入るのだ。上手いよなあ、この省略。
この省略が隠蔽しているもの、それは共同体と統治機構の同一視だ。そのそれぞれの概念、またその同一視にも問題がある。ここに、愛国心というもの自体の問題点がある。
共同体とは、日本語では「くに」とよばれているもので、それはストレートに「国家」をささない。「さと」の意味もある生活の場を指す言葉だ。これが統治機構である「国家」と矛盾するのは当然。なぜなら、国家は中央集権的な世界だから。明治維新によって生じた中央集権国家、これが普通の愛国心の対象なのだ。
わかりやすくするために通常は歌われない「蛍の光」の3、4番を見てみる。
日本という国の事情がよくわかると思う。
筑紫(つくし)のきわみ、みちのおく、
海山(うみやま)とおく、へだつとも、
その真心(まごころ)は、へだてなく、
ひとつに尽くせ、国のため。
九州も東北も「くに」「さと」です。その生活空間は海や山で隔てられている。しかし、「ひとつにつくせ」「国」のため。なぜか、列強に追いつき追い越せ、近代国家として認められ、世界に位置を占めるためだ。さとの人は、「国家」のためにつくすべく、さとをすて東京へでる。いつか一旗揚げて故郷に錦を飾りたい。「さと/くに」に帰るためには、「国/くに」のためにつくさなければならない。この「くに」と「国」の二重性を忘れてはならない。
千島(ちしま)のおくも、沖縄(おきなわ)も、
八洲(やしま)のうちの、守りなり。
至らんくにに、いさおしく。
つとめよ わがせ、つつがなく。
この4番を見ると、千島と沖縄が生活空間であることは、無視されている。「いたらんくにに」の「くに」は国だ。功しをあげよとすすめているにもかかわらず、「努めよ我が夫(せ)、恙無く」ということは、4番の話者は女性で、中央へ愛する人をだし、名をあげて故郷に帰ってきてください、私は家を守ります、というようにも読める。
この時点では「つつがなく」なのだ。けして死ぬことを前提にしていない。それがいつのまにか「お国のために死ぬ」に変る。近代化に不可欠の市場の拡大、帝国主義的拡大の過程で一銭五厘で集められる国民は、国のために死ぬように教育されていく。死ぬことが美しいというのは日本にはある美意識だろうが、それが全国民的に広げられていくのだ。死ねという命令。それは愛する人のためではない。帝国の拡大のためにである。「愛する人のために死ぬ」というのは、非常に良く出来たキャッチコピーにすぎない。
なぜ「愛する人のために生きる」ではなく、「愛する人のために死ぬ」のか。このすり替えを巧妙に行うのが、この蛍の光にあらわれている「くにと国家の二重性」なのだ。この理屈で国民は馬よりも安い資源としてかり出された。
死ぬならわたしのために死んで、国家のために死なないで。
わたしとあなたの間に国家をいれないで。
国家さえ入らないなら、あなたは死なずに済むのだから。
国家は国民の道具でこそあれ、決して主人ではない。
役に立つ道具なら愛しもするが、役に立たない道具など、愛する必要はない。
役に立たない道具は、役に立つように作りかえるのみ。
それは憲法を変えることではなく、構造をかえることなのだ。
真の愛国とは、国家を批判的にきたえる勢力をそだてることである。
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投稿者:泉津真弓
特攻隊として命を捨てた若者は、形ばかりの『志願』であり、自分の死の意味づけとして
「愛する人を守るため」ということにしたそうです。
愛する人を守るために永遠に愛する人と強制的にあえなくさせるするような社会はごめんです。
もう一つ。
私の故郷にはこんな歌があります。
「みんなで手伝う むらづくり くにづくり」
国家にうまく絡めとられるかもしれない
そんな歌です。
でも私はこの歌を一人一人が主体的に参加する「むらづくり くにづくり」であると心を込めて唄います。
一旗揚げることは、国家に尽くすという文脈ではけして語っていない。
それこそ、「むらづくり」に主体的に参加できる実力を身に付けることなのです。
でも、「一旗揚げる」という言葉自体が国家に尽くすという意味に絡めとられる危険性は忘れないことは重要ですね。
投稿者:LEIKO
わたしの愛する人々は、誰にも殺されないし、誰も殺さない人であってほしいです。