2006/6/11
ジャン・リュック.ナンシーは学生時代から大好きだった哲学者だ。
当時、翻訳は「無為の共同体」のみしかでておらず、拙いフランス語力でフランス現代思想を読むのは無謀乱暴、難行苦行。はたしてどれだけ理解していたかすこぶる怪しいが、それでも詩のような一節に心酔したものだ。
彼は人間と人間のつながりを考えて展望する人で、それはまさしくわたしの問題意識でもあったから。いま、人と人のつながりが幾重にも疎外されている。その状況にナンシーが何をいうのか。興味はつきない。
偶然発見したのは生徒にさせている新聞の切り抜きだ。
5/22の朝日新聞のコラムだ。残念ながら朝日ドットコムにはでておらず。
ただハテナの日記発見。ここから記事の内容を想像して頂きたい。
さて、ナンシーの共同体論は、一見、理想の共同体を追い求める他の共同体主義とかわらないように見える。しかし決定的に違うのは、ナンシーが共同体をこれから創出されるべきものと考えている点だ。通常は原始共同体の牧歌的イメージが賞揚されるのだが、ナンシーはその「賞揚」を問題にする。あるイメージが固定されれば、それは<共同>でなくなるというのだ。
たしかに。
ナンシーにおいて、共同体とは「異なるものでいながら共にある」ということで、多様と同義なのだ。
この多様性のなかで如何に自己と他者が形成されていくのかという主張は、他の共同体論とは一線を画したものだ。
こんなナンシーが現在を語る時のキーワードが異境だ。
異境とは「故郷から離れた土地」「居心地の悪さ」「違和感」だ。グローバル化の中で人々は土地や人間との結びつきを失った。それが人々の不安につながる。だから愛国心が登場する。しかし、それは上にも述べたように<共同>の否定だ。昔を美化してもしかたないのだ。
だから、わたしたちは、この不安の中から何かを生み出していくしかない。今が異境でも、その異境から新しい人間関係を生み出していけばいいのだ。
「蟻の兵隊」の上映運動には多種多様な人が集まっている。老若男女というだけでは足りない。ほんとに多様な人が集まっている。それぞれの人がそれぞれの人間関係をひきずってここに集う。そのスタンスや熱さもさまざま。そのさまざまが支えている「蟻の兵隊」はナンシーいうところの一つに共同体であるといえまいか。
共同体とは、いや<共同>とは、生活共同体ではなくとも成立するのではないか。
さまざまな<共同タイ>がアメーバ状に運動する社会。
このよう運動体が現代社会を浄化/活性化していくのではないかと夢想する。
監督も奥村さんもれーこ隊長も、あとは泉津やユリコさんやみんなみんな誰一人わたしと100%同じ考えの人はいない。だいたい、監督と奥村さんでも違うと思う。でも、思うところがあって今ひとつになっている。そこでぶつかったりするけれども了解可能な範囲でまたつながっていく。出て行く人もいれば、入ってくる人もいて、そこにひとつの輪郭が形成されるのだ。ここで、人々は異質の人々と共同で何かをすることを学ぶ。それは家庭や学校や営利目的の場所とはちがい、ほんとうに自分で選びとった共同であるはずだ。
この経験は大きい。大きいはず。
共同で何かをしようとする意思。これが共同体の核になるのではないか。
わたしはひとりだというスタンスはOKだ。
しかし一人でいくかぎり、それは原理的に完成しないということを出発点にしたい。
人間の行為とは基本的に誰かと何かを共有することであり、その延長上に共同体が形成され、そこにおいてこそ人間は生きるとわたしは思う。
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