2006/7/21
「昭和天皇/恥と罪/恥じらい」
蟻の兵隊の事実/背景
今日のふとおもいだした文章。
ベネディクトの恥の文化/罪の文化。
恥は外面的基準にてらして恥ずかしいとおもう日本の文化、それに対して西欧のキリスト教文化では神の規範を内面化しているが故に自己が自己に対して罪を感じる。この対比に対し、作田啓一だったか、鶴見俊介だったか「はじらい」という概念をだしている。
はじらいとは、個人が外部基準に達しないことへの「恥」に対して、自己の外のなんらかのものにアイデンティファイしている時(つまり何らかの価値が内部化されている)その時に、その価値に達しないときに起こるものだという。そのとき、自己が外部に対して優越している。ことがポイント。たとえば、障害者の立場に共感している人が、健常者hはいいよなと言われた時に生じるのだはじらいだ。
さて、思い出すのは一つのエピソード。
とある特攻隊の生き残りの男性が、毎年必ず靖国に参る。
それは、平和国家をいのるためでも、民族主義的国家を建設するためでもない。
その男性の同期の誰や彼やを思うためにいくのだ。
一人の人間が迷い悩み抜いたうえで、命をかけて死んでいった、その行為を軽々に評価するなという「はじらい」が、そこにあるというのだ。
わたしは、その行為を支持する。
その思いはよくわかる気がする。
観る会のユリコさんに聞いた話。
これも特攻隊の生き残りの方。その方が同期会で「同期の桜」だか「予科練の歌」だかをうたったというのだ。その集会のあと、キリスト者であるその方は、キリスト者の集会にもでた。そこで、その話をしたら失笑を買ったという。その痛みもまたわかる。
昭和天皇のメモの報道をみて、わたしはこの「はじらい」ということを思い出したのだ。
昭和天皇は戦争責任を感じておられる。
しかし、その戦争責任は具体的な一人の人間としてのものだ。一人の人間が生き残ったという優位において、死んでいった人間に思いを寄せ、そこにおいて、合祀した人々にたいして「はじらい」を感じている。
天皇が一人の人間として、そのように考えたことは否定しない。
共感も可能だ。
しかし、天皇は個人でおわることはできない。
そして、天皇以外の人間も個人で終わることはできるのだろうか。
全ての人間が個人的なものだけを悼むとき、戦争は浄化されるだろう。
しかし、それに徹することなど可能か?どうやってその個人的なものを創出するのか、あるいは創出されたとして守るのか。そこをおもわないではいられない。
天皇は個人としておもうなら、当然退位なさるべきであった。しかし、個人としての思いとは別に、いかにであろうかおもうところあって、そのまま天皇としてとどまられたのだ。
さて、奥村さんは?そしてわたしたちは?
「蟻の兵隊」は人間ドラマだという、その通りだ。
だが、それを人間ドラマではないというものに対して、いかにして人間ドラマを貫くのか。
それは何によって可能なのか。
どこまでも具体的個人であり続けることの困難さは、この商品化の徹底した時代でも、盤上のコマ(これが田中美知太郎だ)として殺されていった戦争の時代とまた同様だ。いやむしろ自覚がないだけ困難かもしれない。
これは主体性の問題だろうか。三木清、丸山真男、みなこの主体性を考えていたようにおもう。
具体的個人であり続ける主体性の思想。。。
あまりに、不定形だが、「蟻の兵隊」初日前夜に映画以後の課題としてここに記録する。
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。