2006/7/29
上映運動としてチケット売りまくってる私、竹薮は、普段はほとんど、用がなければ身体を縦にすらしない、ゲル状の人間である。用がなければ起きない。基本寝ている。自分からは起きない。用、あるいは他者に起こされるのだ。お腹がすいた子どもとか、いい加減に起きろという夫とか、仕事や何かの約束や、あとはまあ、洗濯とか。
つまり、かなりだらだらな人間だ。虚無的といってもいい。
用があっても起きられなくなったら世にいうウツだろう。
だいたい、世の中にはいろんな考え方があって、私のようにぐだぐだな人は枚挙にいとまがない。たとえば、邯鄲の夢というやつ。夢が現実で、現実が夢で、という話。あるいは、あるものが存在しているということは、存在していると「私の脳が刺激を受けている」だけであって、刺激は存在するが、あるものが存在するかどうかはわからないというヤツ。この辺りは映画マトリックスでかなりリアルに再現された。決して否定できるものではない。
科学の世界でいけば、利己的な遺伝子とか、不確定性原理とか、基本的には人間の知の主体性など、ありゃりゃ、である。前者では人間は遺伝子の性能を発現するための手段だし、後者のいうところのプランク定数というのは人間の知の限界を明瞭にしめしたということだ。そのどちらもが人間の知の成果ではある。しかし、人間の主体性や、認識主体の能力は明らかなものではなくなったことは確かだ。
はたして、「私にはどんな意味があるのか」という思春期的問いは宙ぶらりんのままとなる。
そんな私がなんでまた、上映運動になぞ精を出すのか。
つまりなぜ起き上がるのか。
夏期講習の合間にそんな雑文をひとつ。
上のような理屈で、わたしはある意味で主体性を放棄している。
求める人が「私」を使えばいいとおもっている。
また、「私にはどんな意味があるのか」という問いについては「かなりの確率の高さで何らかの意味があるとするところから始める」ということにしている。その意味で、わたしのやっていることは、人間や社会というものを前提として始めた結果、とある選択が生じたとき、可能性を減らさない方向、時間軸、空間軸にしたがってなるだけ異質性を担保する方向で判断し、行動してきた。
何かを判断して、そのことを表明し、行為することが、私の場合、上のようなわけで、かなり理性的に処理されるので「恥ずかしい」とかいう一次的な感情に結びつかないので、その意味で行動へのアクセスが近く、そのことでさらに経験値が蓄積され、行動しやすくなっている面もあるかもしれない。というわけで、私は私がこのような運動をするのは「意思」によるものではないかとおもってきた。不遜なことに「他の人がやるよりも私がやるほうが合理的だ」と。
しかし、最近違うかもしれないと思い至った。
それは映画の中の宮崎参謀の病床の場面ともリンクするのだが。
インターネット上に知り合いのひとりに非常に耽美的なお嬢さんがおられる。
彼女は普段は非常に冷笑的で老成した物言いをなさる。もちろんそれは装われたものであるがが、そこに彼女の価値観があらわれてもいる。そのお嬢さんが、今夏日本のドキュメンタリーを見ます。一本は「ヨコハマメリー」、そしてもう1本が「蟻の兵隊」。
その二本をみて「人生の尊さをこの時に焼き付けたい。」という。
この率直さはなんだ。
いわゆる倫理的直観といっていいとおもう。
その言葉のあとに、さらに2名20代女子のコメントが続く。ふたりとも、非常に個性的な生き方をしている人たちだ。決して恵まれた人生ではなく十分に苦しんだりもがいたりして生きてきた人たち。彼女達もこの2本に深く惹かれている。皮肉の一つもいわず、メリーさんと奥村さんの人間としての魅力に、それぞれの言葉で経緯を払う。
彼女達の嗅覚を信頼しよう。
そして、わたしも意思ではなく、本能がそう命じているんだと思うことにしようとおもう。
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。