2006/8/3
上映運動はまだ続いている。
チケットを買って頂いたひとに劇場まで来てもらわねばならない.
チラシ配布もつづけなくちゃ。こないだいった吉祥寺の「くぐつ草」、チラシ入れにチラシがなかった!!なんということ、「くぐつ草」はそういう人種があつまる店なのに。わたしはチラシの持ち合わせがなかった。何たる不覚。
会場の案内がまた一苦労。皆、ネットに接続できるとはかぎらない。
というわけで、地図をコピーして渡したり、なんやかんやだ。
上映運動をなんのためにしているか。
それは多くの人に「蟻の兵隊」を見てもらうためだ。この映画は多くの人に見てもらわねばならない。それは事実を知ってもらうためでもあるが、奥村さんの物語を多くの人に伝えたいというのが大きな理由でもある。そして、その活動は一にも二にも肉声で伝えるということだ。人は肉声でないと動かない。一人一人が自分の言葉で奥村さんの物語を語る。それがほんの小さな物語を豊かにしていくのだ。
わたしはなにか問題を考えるとき、誰とどのように共有するかと考える。
自分一人の問題というのは案外に少ないもので、問題はいつも人間関係の中に生じるのだ。例えば、大きな病気にかかったとする。それは、その人の自己実現が損なわれる悩みだが、その自己実現とは自分が他人のように生きられないということだったりするのだ。この場合、損なわれた自己実現は、病気になった自己を誰かと共有することによって、解決に近づくのだ。
市民運動は嫌われる。
観る会の中でも、何らかの運動に関わってきたものは少ない。先頭に立つ隊長もどちらかといえば、運動なんかいやだと毛嫌いしてきた人物だと思う。私自身が普段は寝ていると書いた(本ブログ7/29エントリー)そして「私の内心は自由だ。押し付けないで。」といわれる。
つまり「ほっといて」と。
だが運動するわたしは思う。「あなたは誰と何を共有しているのですか」
再びいわれる。「私は自由だ。自分のことは自分で決める」
しかし、それはあり得ない。生まれる前から母子手帳という形で国家に売られている日本国民に何ほどの自由があろうか。生まれたら学校に、長じては会社に徹底的に拘束されて、のこった私生活も隅から隅まで商品化されているではないか。私生活=プライヴァシー(=privacy)とは結局、国と商品に奪われた(=prived )残り滓でしかない。
それなのに、国と会社には自分を差し出し、いい学歴、いい会社、年収、背の高さ、豊かな商品、痩せた身体、健康な心身と汲々としているにもかかわらず、運動に奪われることには敏感に反応する。それはなぜだ。
今必要な運動は、奪われ尽くしている現状を多くの人が共有することだと思う。多くの人は自分が奪われていることに気付いていない。共有されることによって自らの自覚にもつながっていく。共有されるだけで、私たちの生は豊かなものになるだろう。私はそう考えている。自己認識とは他者認識にほかならず、そこにあらたな人間関係がうまれるからだ。
今回の場合は、奪われ尽くした奥村さんの物語を知ることで、奥村さんの人生を豊かにできた。国家に裏切られ続けた人が、人々によってその欠如を取り返す。こんなに小気味よいことがあるかしら。そして、「人々」はそのとき、奪う国家の側から、取り戻す人間の側へシフトするのだ。
たしかに、感じの悪い市民運動はある。私自身へそを曲げて絶対にいやだと思う活動もある。そうじゃないだろ、もっと違う方向があるよということもある。かつてどんなイヤな思いをしたんだろうか、被害者意識で凝り固まっていたり、いったい何さまのつもりよっていうぐらい、上からモノをいったり。そういうのは、むしろ何かを独占して他者と共有しないことで自己を保っている困った運動だ。市民運動を毛嫌いする人たちと同じ構造に陥ってしまっている。
今回はじっくり共有をはかるようにできたかというと、ちょっと問題ありかもしれない。だって映画を見てくれたら、絶対大丈夫という自信があったから。期限が限られていることもあったし、単発の運動なので、無理をしたかもしれない。その意味で「効果のためにはちょっと不愉快なくらいがちょうどいい」などと言い切り、しゃかりきに動員をかけた。肉声といいながらテクノロジーに頼ったりもした。その意味で不愉快に思われた方もいるかもおられるだろう。
ほんとうにもうしわけない。
結果として、現在大ヒットを頂いていることを思えば、肉声によって隣のひとに伝えるということにある程度成功したのではないかと思う。そうやって人から人へ伝わったことが、ヒットを生んだと思う。作品が運動によって支えられた。そんな運動を出来てよかったと思っている。
とある方からその運動をふくめ、映画評をいただいた。映画の感想のみならず、観る会の運動への忌憚のない意見が含まれている。その意見にわたしは応えなければならない。実際問題として、私がチケット買ってもらった人たちの中には、1300円で「つきあい」をして、劇場にはいかない人もいるだろう。それが現実だ。しかし、彼女は批判も含めて私に連絡を取り、映画を見、深く揺り動かされその全過程を、私への批判を含めて寄せてくれた。これ以上の誠実があるだろうか。わたしはその誠意に答えねばならない。
早々に観る会のブログに掲載されました。
あわせて読んで頂きますように。
http://blog.livedoor.jp/the_ants/archives/50606936.html
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投稿者:たけやぶ。
irodimさん
コメントありがとうございます。
おっしゃる意図よくわかります。その通りです。奥村
さんは資料の人で証拠をもとめて再審でも勝訴を願っ
ておられます。つまり大きな物語の書き換えを願って
いるのです。
一方で、奥村さんの「生きててよかった」という思い
もまた真実です。イメフォの斜め横のスタバは世界中
で一番客の平均年齢の高い店です。おじいちゃんとい
われる年齢の方が道に面したカウンターで不器用にア
イスコーヒーを飲む光景は何とも言えないものがあり
ます。その胸中やいかん。彼らは家に帰って今日の映
画を誰かに話すだろうか。
奥村さんは何百人もの学生を前に、紅潮した頬でおじ
いちゃんの話をきいてくれと訴えました。小さな物語
の共有です。
奥村さんの物語はおかげさまで多くの人に共有して頂
く事ができました。次はその方が、その方の家族の物
語を掘り起こすこと。それが、誤った大きな物語に立
ち向かう時、まず第一歩となるのでしょう。
私自身、私の母の物語がなければ、この運動には加わ
らなかったと思います。
http://members.jcom.home.ne.jp/take-yabu/
tonma18.html
投稿者:irodim
『奪われ尽くした奥村さんの物語を知ることで、奥村さんの人生を豊かにできた。国家に裏切られ続けた人が、人々によってその欠如を取り返す。』 ホントかなあ、そう思って自分が豊かな気になっただけでは?私は、奥村さんたちの体験をこうして知ったことをきっかけに、じゃあほかの立場の人は?たとえば、『蟻』を作り出した上の人の物語はどうだったのか?とか考えてみるべきだと思う。『知る』だけじゃなく、もっともっと自分たちの想像力を豊かにして、噛み砕いてこそ自分の人生が豊かになるし、この映画が豊かになると思う。その上で、戦争とは?を考えて賛否両論出していかないと、奥村さんの人生をどうのとは言えないんじゃないかなあ。みんな自分なりのしっかりとした『根拠』を作り上げようとする、その過程が『歴史認識』になるのでしょうし、その過程で人が人として自由な精神を持っていけるんじゃないかなあ・・・。