2006/8/22
竹薮組で現在売り出し中の女子、泉津についてである。
「蟻の兵隊を観る会」の運動では、泉津はいわば広告塔であった。
顔立ちが派手で、声も大きくて、コミュニケーションに臆病でなく、理屈っぽくなく人間的。
この手の運動には欠かせないキャラである。そのため、AERA、週刊金曜日、ニュース23、そしてこの間のNHKの@ヒューマンにおいても、泉津が取材対象となった。その中で、どうにも思いが通じないもどかしさがあったようだ。とくに長い扱いとなった@ヒューマンや、そのきっかけとなった早稲田での学生イベントの前には、電話がかかったり、直接話し合ったり、いろいろと思うところがあった。
なにが通じなくて、もどかしいのか。中高年の立場から考えていきたい。
マスコミは若者に飛びつく。
どうしてだろう。マスコミ的にどこがおいしいんだろうか。
若者が普通、社会的な問題や政治などに関心がなく、指示待ちで運動なんかしないとイメージされているとすれば、そのイメージからはずれた運動する若者はおいしいかもしれない。
しかし、それは運動するかしないかだけであって、運動そのもののイメージが保持されたままである。
そこに泉津は苦しむ。
泉津の日記からコピペ
********************************
「この映画のどこに惹かれて、どんなことを伝えたくて動き、その成果はあったのか?」
どこに?うーん。奥村さんかっこいい!まず顔。絶対ブイブイいわせてましたよー!
「それはつかえない。」
つかえない?そーか?そういうパワーって結構すごい原動力になるんじゃないのかなー?
確かに奥村さんは私の中でアイドル的な特別扱いはしてないけど、好きなんだもの。
このおじいちゃんの喜ぶ顔が見たい。
それじゃいけないのかなー?
「どんなことを伝えたかったの?」
みてくれ!それだけ。
あたしに伝えたいことなんてなかった。
伝えたかったとしたら、それは「見てくれ」ということじゃないかな。
後は映画が何とかしてくれるという、丸投げゴーマン。
「その達成度は?満足度は?」
よくわかんない。まぁ、映画の上映期間は延びている。
だけど、どう考えてもあたしの力です。なんて・・・言えない。
言えるわけねー! だって全然思ってねーもん。
そう思って酔いはじめたら終わりな感じがする。
まったくもってテレビ的でない。
わかりにくい。
らしいよ。
しょうがないよ、アタシもよくわかんないんだから。
でも、「つかえない」と連発されて
わかりやすいことばで説明しろと詰め寄られて、
どんどん自分の「よくわかんない」に自信がなくなっていくこの自分の弱さよ。
言葉がほしいと思って既成のことばに頼ろうとする弱さ、泣きそうだったよ。
泣き喚いてやればよかった。
********************************
この「テレビ的でない」は大きなお世話である。
テレビ的でないものをうまく料理するのが、あなたの仕事でしょうよ。
私が非常に切なく感じるのは
どんどん自分の「よくわかんない」に自信がなくなっていくこの自分の弱さよ。
この1行である。
詰め寄られる前は「よくわかんない」に自信がなくはなかったということだ。泉津は、そのことが何らかの欠如だとはおもっておらず、「自分のよくわかんない状態」を自分のものとして持っていたということだろう。しかし、インタビュアーにわからないわからないと詰め寄られ、わからない状態が何か「欠如」のように感じられる。そのことを不当だと感じ、感じる自分を弱いと責めているのだ。
私はわからない状態を、「あるべきものの欠如」とは考えない。言葉にならないものは存在しないというのは一面の真実であるが、言葉にできないものもまたあるのだ。
私たちは未だ見ぬものを描くことは出来ない。今が良くないとはわかる。ではユートピアとは何か。その実体を描くことが出来るのか。できない。ユートピアとは何処にもない場所という意味の言葉だが、それはイメージできないということなのだ。
もし、泉津が「蟻の兵隊」を大事に思ったら、下手なラベル貼りなどしないはずである。できないのだ。どのように言葉で表現しようとしても、はじめて見た豊かなものを、これまでにある貧しいものの名である言葉で表現できようはずがない。だから、ただ見てくれというしかない。「蟻の兵隊」は泉津が何かを伝えるための道具ではなく、泉津が何かを発見していくための道程である。そしてその道程は泉津一人の道程ではなくおおくの人に共有されておおくの言葉が発せられ、その渦の中から何かが見えてくるかもしれないという道程である。だから、映画を見て語れ、発信せよ。それが泉津の訴えだったのだ。
確かに泉津は泣きわめけば良かったかもしれない。それが泉津の発信だったかも。
それがテレビ的だったかも。
私は泉津より30年余計に生きている。だから、その「わからない」をためつすがめつ30年生きてきたのだ。だから、わからないということを、もっともらしく説明している。しかし、「わからない」に変わりはない。私が上記のように語ったとき、インタビュアーは「わからない」「テレビ的でない」と、やはりいうのだろうか。
まあ、私は若くないので、その時点で「テレビ的」でないのだが。
わたしたちは未来を希望する。
しかし、どんな未来かをしっかりと描くことはできない。
今みたいじゃない未来としてしかイメージできないのだ。
わたしたちの過去はいつも、こうじゃないこうじゃないという残念さで成り立っている。
この残念さの上に現在の希望がのっかるのだ。
わかっている。あるいは既成の言葉で自分を発見したように思うよりも、「わからない」を共有しようとする泉津の姿勢に、私は共感する。そっちの未来の方が健康だとおもうから。
コメントは新しいものから表示されます。
コメント本文中とURL欄にURLを記入すると、自動的にリンクされます。
投稿者:たけやぶ。
☆泉津
>本当かしら?
なかなかしぶといなあ。いいじゃんか。
そう、勿論発信してるも〜んとかいっていなおったら
さいてーだよ。共有したいひととはまあまあ共有で来
てると思うけども、望んだ共有の仕方がずれてるんだ
よね(爆)
☆盆の十四日さま
コメントありがとうございます。
亀レスで申し訳ない。
千葉出身のかたかしら?海岸線の浸食が気になる昨
今。九重ボーイとして湘南を浸食を祈ります。
投稿者:盆の十四日
泉津の苦悩を読んで…昔茅ヶ崎で友達にサーフィン習った頃、「俺は出身が湘南じゃないし…日頃考えていることも何か違うし…ウーム…」もどかしい?「出身地付近の海岸からして苦悩ボーイってとこかぁ」
投稿者:泉津真弓
釈然としない思いを残しつつ、理不尽さを感じつつ、自分に自信がなかった。
でも、わかんないでもいいんだと、
それは発信していないことではないといわれて、
ほっとすると同時に、
本当かしら?
とも思う。
本当かしら?はこれから見つけてゆくのだろうと思う。
しかし、共有したいなーと思う人には振られっぱなしだよね(笑)
めげないんだもーん。
追伸:アタイはAERAには出てません。
かわりに「世界」に出していただきやしたー。