2007/11/8
あらためて振り返ってみると、ブルースを中心にハモニカを吹くようなるまでに、すでに、はるか以前から、私の身の回りには「きものの世界」がありました。
私が生まれたのは、京都・西陣の織物屋の家です。主たる織り手だった祖父は、織物を織る工場(こうば)にいるときは、作業着として洋服でしたが、夕方、一番風呂から上がって身にまとうのは、春秋冬なら、きもの(どてら風)でした。祖母は真夏以外は、ほとんどいつも、きものに前掛けやら、割烹着を着ていました。
私の乳幼児のころのアルバムを見ると、父親は会社員ですが、家では、くつろぎのためか、きものを着て、私を抱っこして写っています。母親は、なにかのとき――私の小学校の入学式とか――にはきものだし、私を筆頭にきょうだい3人、正月にきものを着た写真が残っています。
月参りにやってくるお寺さんも、当然ながらきもの(法衣)。私が子どものころ、月に一度、祖父の姉が「みたらし団子」を手土産にわが家を訪問していましたが、そのときも、たいていきもの――というように、きものはまだ、日常生活の風景の中に、普通にありました。
中学時代に私は、どうしても「袴」をつけたかったのです。それで3年生でクラス劇をすることになったとき、既存の芝居でなくて、自分で脚本を書き、ついでに私自身が袴で出演する役を「職権」つくって、舞台できものを着ました。
親は「あほか」と思ったでしょうが、私は、ただひたすら袴姿にあこがれていたのです。祖父の紋付と袴を借りました。このとき、きものの着方や袴のつけ方を祖父に教わりました。今でも自分で角帯が締められるのは、祖父の伝授のお蔭です。
高校時代以来、「歌舞伎」に夢中になり、舞台の上のきもの――舞台衣装としてのきもの、その意匠や工夫――に、自動的に触れるようになりました。

20歳のころに、親が、最初はウールと大島、2種のお対(アンサンブル)をつくってくれました。学生時代、正月などに何回か着ましたが、その後、歌舞伎見物には行くものの、自分の「きもの」ことは、ほとんど意識の外にありました。
とくに共働きで、私は朝に子どもを保育所に連れて行き、仕事に向かい、夕方保育所に迎えに行って、洗濯機を回しながら夕食の支度をし、子どもと一緒にお風呂に入り、そこから明日の支度、ときには夕食が済んでから再び仕事に出る、日曜日も仕事に出るというような毎日が10年続きました。
せっかくの大島を私がほとんど着ないので、母親が「あんたに持たせておいたら、カビがはえる。ここで預かっておく」と、大島は実家に戻ってしまいました。今から思えば、恥ずかしいというか、申し訳ない話ですが、当時は「きもの」どころではありませんでした。
私がハモニカをはじめたのは、まさにその、「それどころではない」日々の中だったのですがが・・・。

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