BobbyはBlueにこんがらがったらしい。しかしそれも随分昔の話だ。俺は昨夜Love songsに悩んだ。しかしそれも昨日の話だ。
好きな女がいる。多分好きだ。たぶん。ずっと前から好きだったような気もするし、再発見したような気もする。一時的な感情の高ぶりだけなのかもしれないし、時の大きな流れの中で穏やかにその人の事を考えてるようにも思う。いや、もしかしたらもうそれはどうでもいいような事で、思春期に盛り上がった、もっと平たく言えば中学校の林間学習での1コマ、「お前誰のこと好きやねん」に対する答えを出す為だけに目当ての女を適当に思い巡らしたような・・・。とにかく今は言葉にならない。
ラブソングを歌う意味を考えてみた。俺は今までに当人が聴けば恥ずかしくってじっとしてられんようなものを書いてきた。今まで書いたものを否定するつもりはないし、俺の可愛らしい作品たちを棚の上に放り出すつもりもない。
君が好きだー!好きです!好きです!と叫ぶ歌がある。これを俺はずっとその人に対する愛の激白のような気持ちで歌っていた。だからそういう気持ちが高まらない時に歌うのは非常に複雑な心境になっていたのだ。「歌に罪はない」などという言い訳を言い聞かせてる時もあった。でも、それは少し違う。
ライブは決して告白の場所ではないのだ。もっと言えば歌の世界の中にもそれは存在しない。歌というのはどれだけ気持ちを込めても、まったくの嘘がなくてもそれは物語でないといけない。物語の中からそこに含まれる意味を聞いている人に感じ取ってもらおうとするのは間違いではないし、そういう努力こそするべきであるが、「君が好きだ」と言う歌詞を直接ある1人に対して物語から引き剥がして伝えようとする、それは何となく変な感じだ。
歌はあくまで作品でないといけない。どうしても作ってから伝えるまでを全て1人でやってしまうとそういう事を忘れがちになる。映画だと原作者がいて脚本がいて監督がいて役者がいてその他多くの人の手が加わって作品になる。個人の感情は作品を支えるという役割に気持ちがそそがれる。大きなテーマの中に愛がある。その愛を感じたり分け合ったりする訳だ。歌が大きくなる為にはいくら言葉が個人的であってもそこに何かしらの普遍性が必要なのではないだろうか?それはいったいなんなんだろう?
まぁそんな事を考えておったのです。そして今日強く思ったこと。
愛を伝えるのにギターはいらない
むしろ邪魔なような気がする。そして付け加えると“ギターを持って愛を語る奴を信用するな”ということでしょうかね。
俺はこれからもラブソングを書き続けるだろうし、それを色んな人の前で歌っていくだろう。時には女の腰掛けるベッドの横でささやくように歌うかもしれない。でも、それはあくまで“歌”なのだ。本当にその人に気持ちを伝える時にはそういう武器を絶対に使っちゃいけない。今まで、分かっていたような、わかっていなかったような。。。
※「愛」という表現もまた難解で、地球全体を含めた大きな気持ちも“愛”だ。ここで言いたかった事はあくまで個人と個人が主にセックスやその後に想像出来うる生活の変化を期待するための愛。そして誰かに分かってもらおうとしたのでもないのかもしれない。