2009年6月13日の午後10時10分、プロレスラー・三沢光晴がこの世を去った。それは余りにも突然の訃報だった。
その第一報を知ったのは、14日の0時35分の日テレ報道番組・NNNニュースで、その時間、座椅子に坐ってボケッとしていた。画面を観てると三沢光晴のVTR映像が流れている。
何故、突然、三沢の映像がこんな時間に???
その瞬間、なんだか嫌な予感が脳裏を過ぎる。
「まさかな・・・」
嫌な予感は的中した。
担当アナの豊田順子の口から衝撃の言葉が出た。
「プロレスラー・三沢光晴さんが亡くなりました」
座椅子から身を起こすと、鳥肌が立ち、一瞬顔が青ざめたのが自分の感覚でハッキリ判った。それから間をおいてから頭がクラクラしだした。
「目眩か・・・」
正直、プロレスへの興味は二十歳を境に卒業していた。
毎週買っていた週間プロレスも買わなくなり、別の事に興味を持ち出した。今は懐かしの古き良き時代、90年代の事だ。
当時、三沢光晴は所属していた全日本プロレスの中の世代交代を賭け、今は亡き
ジャンボ鶴田と抗争を展開していた。
メインイベントは毎回の様にジャンボ鶴田VS三沢光晴の熱過ぎる戦い。プロレス業界は、丁度この頃から1試合の時間が30分を超える長丁場になり出し、それが客に受け、長時間の試合が当たり前になっていった。
その時間延長は確実に三沢の選手寿命を縮めていく。
三沢は毎試合の様にスタン・ハンセンのウェスタン・ラリアット、スティーブ・ウィリアムスの殺人投げっぱなしバックドロップ、ジャンボ鶴田の長身を活かした、へそで投げる高角度バックドロップを喰らい続けていた。
週間プロレスを読むと、試合後の控え室の様子が写真付きで掲載されている。当時から三沢の首はガタガタだった。
三沢は試合が終わると控え室で倒れ込み、悲痛な呻き声を上げていた。
「首が詰まって苦しい・・・・」
若手に首を引っ張らせ、首のストレッチで毎試合後に荒療治のケアし、試合に臨んでいた。
バックドロップと言う技は、プロレスでは古典的な技の一つだ。その昔、ルー・テーズという外人レスラーが編み出した、いわゆる
<へそで投げる>式のバックドロップが主流になっていった。
へそで投げるというのは簡単に言うと、自分の腹の上に乗せる様な感覚で相手を後方に投げ落とすと言う事。
この技は、掛ける側の身長が高ければ高いほど威力が倍増する。190cm以上あったジャンボ鶴田の高角度からのバックドロップの凄まじさは想像しただけでゾッとする。そんな荒技を鶴田は、三沢との試合中に何連発も繰り出していく。倒れる度に引き起こされ、後ろに回りこまれ、何度も何度もマットに首と後頭部を打ち続けられた。
倒れ込み起き上がってこない三沢!
カウント3寸前でフラフラと立ち上がる三沢!
観客からは大歓声の嵐と拍手喝采!
そんな三沢は、何度かの挑戦でジャンボ鶴田から3カウントを奪う事に成功し、念願のチャンピオンベルトを腰に巻いて王者の座に着いた。
それから間も無く世代交代はすぐにやってきた。それは余りにも判りやすい交代劇だった。
ジャンボ鶴田が体調不良で引退し、その後、肝臓を患って急死した。その出来事は、師であるジャイアント馬場の死から間もない時期で、マスコミは皆こう表現した。
「鶴田が師の後を追っていった」
おそらく三沢は、どこかの時点でドクターストップを掛けられていたと思う。それがいつかは知る由も無いが、10数年前から今に至るまで首を痛め続け、首が詰まるほどの試合を繰り返す日々。脳内の血管もパンク寸前だっただろう。
三沢は13日の試合で死ぬ運命だったのではなく、理論上、いつ何処の試合で死んでもおかしくなかった。それがたまたま広島での遠征試合だったに過ぎない。
何処かの三流記者はこんな事を書くかもしれない。
「ジャイアント馬場、ジャンボ鶴田、三沢光晴。呪われた全日本プロレスの歴史!時代を飾ったエースが三代続いて死んだ」
プロレス低迷期の最中、三沢の死は
<泣きっ面に蜂>としか例え様のない夏目前の大凶報だった。


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