2009/12/1

心理学  

看護学校の試験の採点をしていて決意したこと。

今年度の授業は、自分が人間総合科学大学で学んだ心理学関係の授業やテキスト、それ以外の大学生向けの心理学テキスト数冊、さらには専門書などを参照しながら、さらには素人向けの啓蒙書をみながら、授業用のプリントをつくって授業をしてきた。

分かりやすくというのが、「暮らしに活かすやさしい人間学」の方向性であるが、結果としては「難しかった」と思う。

人間観をつくっていくうえで、心理学で明らかにしたことを活用していくことは不可欠であるのだが、心理学の森のなかで僕自身も迷っていたのかもしれない。

人間の心とはどのようにしてできて、どのように働くのか。

それをもっと日常語で分かりやすく伝えたい。

それが来年度の課題である。

今年のプリントを冊子にしてテキストにしようと思っていたが、刷新したい。

それを元資料にして、もっと「自分の言葉で」疑問を呼び起こし、それに答えるようなかたちで、人間観を育てていくという視点から書き直したい。

現代は様々な矛盾がきわまってきて、ストレス過多となってはいるが、僕には希望に満ちた時代に見える。

次の時代の足音が聞えてきています。

さまざまな人たちが「いのち」「自然」の大切さ。

意味ある人生を送り、人間として生まれてきて、自分のいのちを輝かせることの大切さを伝えています。

そういう人生を送る人が増えてきています。

僕は「自分に何ができるか」といつも考えています。

「心の働き」について「やさしく」「分かりやすく」そして、人間の大きな可能性を信じることができるように、そのようなテキストをつくるぞ、と今日、12月1日に決心しました。

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2009/11/30

今年もあとわずか。  

昨日のセカンドレベルの看護師研修は有意義でかつ、楽しかったです。

途中、眠いところもあったようで、それは反省。
全般、笑いのある、そして深い内容を伝えることのできた研修となったようです。

とくに、肩の「ホメオストレッチ」を紹介しましたが、好評でした。
百の理論より、一の実践ですね。

理論的にはずいぶん、整理がついてきましたが、やはりタイムマネジメントはもっと体系化、図表化を試みる必要があると反省。(眠かったのはこのコーナーだったようです)

気合を入れすぎたのか、少しのどを痛めましたが、今日は戻っています。

また、昨日からNHKで楽しみにしていた「坂の上の雲」が始まり、食い入るようにしてみました。録画したので、もう一回みたいです。

何もないところから、近代国家を切り開いていった「活力」「志」の力を受け取ったような気持ち。

あの気持ちがあれば、これから僕だって何かできそう。そう思いました。

看護学校の試験の採点をしていますが、今日中には仕上げて、再試験問題もつくっておくる計画。

朝の散歩も再開。

やりたいことがいっぱいだが、ちょっと停滞。

目の前のことに集中して「生産性」をあげていきたい。

課題だった「孤独感」はうすらいでいる。
人に頼りたいと「依存心」を強めると「孤独感」が強まる。

人に何かしてあげたいと「愛」を強めると「孤独感」が減少する。

愛とまではいかなくとも、社会に対して何か役に立ちたいと思うと「孤独感」は減る。

はやく、読み聞かせの本も完成したい。もっと文章も練って、挿絵も増やして・・と思っていると、いまだ、「会ってもいない」読み聞かせグループの人たちの顔が浮かんできて、孤独が減っていく。

調和の科学を完成させて、暮らしに活かすやさしい人間学をつくりあげていこうとしている。頭のなかには、様々な構想がある。それは「孤独」のなかで生まれてくるものではなく、いまだ出会っていない「仲間」に届けるために創っている。

創造は愛がなくてはできないし、愛は創造として形になっていく。
働くこと、交流することは一体になっていく。

それは「砂粒のように孤立した人間」が社会に関わり、他者と自分の意志でつながっていく営みになっていく。

だから、創造とは競争して自分が他より勝ろうという動機ではなく、自分を活かして、何か他者の役に立とうというエネルギーから生まれてくる。

そして、そのように自分を忘れて工夫をして創造に集中し、自分を忘れて努力して他者に役立とうとしていくなかで、「自己意識」が薄まっていき、『摂理』のなかで、関わりのなかで存在している大きな自分に気づいていく。

だから、愛がないと、創造がないと、自己は統合されていかない。

また、自我が薄まって、自己が統合されないと、愛や本当の意味での創造には至らない。

自分を活かして他者の役に立とうという「志」「使命感」が第一歩である。

そのような「自己実現」的な高次の欲求は、さまざまな欲求が満たされて、静まっていったあとに現れる。

だから身体的なホメオスタシスを高めていくこと。そうでないと、ホメオスタシスのk撹乱の解消だけが生きる目的になってしまう。

他者と親密な関係をつくり、尊敬される自分となり、困難を乗り越えていく自分でないといけない。
そうでないと、他者からの親切や尊敬を求め、自分のプライドで仕事にのめりこんでいくだけの人間になってしまう。

そして、心をやわらかくして、好奇心をもって、刺激に向き合っていくこと、生活体験から逃げないこと。
目の前のなすべきことをよくもわるくも、「味わうこと」。そして、自分の知恵と勇気で問題を乗り越えていくこと。

そうでないと、常に問題が発生しつづける。
人間は刺激、ストレスから逃げるようには創られていない。それなのに、不快を避けて、他者に依存しながら生きていると、「主体性」をなくさないという本能的な働きから、無意識的に次々と問題を生み出していくことになる。
そして、そのなかで苦しみ続けることになる。自分自身が問題を招いているのである。

快も不快も避けることなく、目の前の現実に向き合い、その意味を読み解く生き方をするようにと仕向けられるのである。

このような条件をクリアーしていくことで、それらの欲求が静まってくる。

静寂とはあるいみ、このような欲求の充足。「足るを知る」という姿勢から生まれる。

低次の欲求が「足る」とされて、静まれば、自己実現の欲求。人間存在の根底にある欲求が立ち上がってくる。

それはかつては、超自然的な「神」が持っているとされた特質である。
創造であり、愛であり、統合である。

しかし、人類が歴史のなかで神を求め続けてきたということは、人間のなかに、そのような高次の欲求が眠っていたと考えられるのである。

僕もその道を歩いていきたい。
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2009/11/26

資料完成  

日曜日、11月29日の県看護協会のセカンドレベル研修の資料を完成して送信した。

タイムマネジメントはずいぶん整理がすすんだ。かなりの本も読み、考えてきたが、まとまったように思う。
今回は、テキスト用の文章のものが完成したので、今後、図表化などを試みていきたい。

また、ストレスマネジメントについては、かなり図表化が完成しているので、それを出していく。調和の科学の体系も一部使う。

それから、各種の心理テストや書き込み式の調査票なども別冊として用意。

これでも、手持ち資料をかなりしぼって使う。

この数年間で、対人関係、ストレスマネジメント、タイムマネジメント、心理学、健康科学などかなりの量の資料を作成してきた。それがたまっていて、蓄積したデーターベース的なものになってきている。

これをうまく活用してウェブ上での学習ができるようになればとも思うし、もっと体系的な教育ができる機会をつかんでいきたいと願っている。

もういちど、見田宗介(真木悠介)の「人間解放の理論」を読み返している。

未来論が興味深い。

動機論についてもすすめていく。
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2009/11/25

少年院  

今日は福岡少年院のボランティア。

続けることの大切さを感じている。

BTU代表の美野田啓二先生とも車中話ができて有益であった。

自分自身の日常の意識をきちんとしていくこと。

それが感動を生み出していく。

伝えようとしても体験していない人にはわからない。

それを伝えるためには自分自身が自己保身をやめて未来を引き寄せる「創造」の人でなといけない。

多くの反対や白い眼を気にしてはいけない。
それを突き破ろうとするエネルギーが大切。

未発達な「心理学」

科学と道徳と宗教はバラバラで人間をどこに連れていこうとしているのか。

僕はそれらを統合した道を歩いていきたい。
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2009/11/22

物心両面の調和した豊かさ  

現代社会は物質の豊かさを求めてきた。

かつての理念文明に対して、感性文明だといわれている。

今後の世界は、その「統合」であるといわれている。

精神的な豊かさと物質的な豊かさの調和。

調和の科学とは、精神主義、復古趣味のものではない。

そのためには自分自身が「精神論」になりすぎないこと。

経済的なこと、物質的なことを肯定して大切にすること。

そして、そこに「心を込めていく」道。

物質も精神も同じ「調和の世界」であって、区別するようなものではない。

精神ということに「とらわれ」を持たないこと。
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2009/11/21

心の働きの基礎  

物質の世界から生物の世界がうまれヒトが出現しましたがヒトは社会をつくり
言語や文化を生み出して、そして人間の「心」が生まれました。

この「心」について知ることは自分を整えて成長させていくうえで、他者とよい関わりをするうえで、役に立つと思います。

現代社会はハウツー社会ですから、手っ取り早く「どうすればよくなるか」と問いを発してきます。

しかし、物の世界とは違って、心の問題についてはそれではうまくいかないのではないでしょうか。

だからといって、心理学者のように詳しく、複雑に知る必要がないのも、もちろんのことでしょう。

そういう意味で、暮らしに活かすやさしい人間学として、「心」についてどの程度、知っておけばいいのか。そういう理念がないと、学説を学んでいっても、そこに「体系」がないのですから、「雑学王」「物知り」と大差ないことになってしまいます。

特に、心の科学については、注意しないと混交玉石の理論を覚えて、活用できない「心理・雑学王」になってしまいそうです。僕はそれは避けたいと思うのです。

骨格を考えていますが、環境と人間の問題には二つの方向の見方があります。

1.内なる力として動機(欲求)があり、それがどのように満足されていくか、そして次の動機がどのようにして出てくるか。満足がキーワードです。

2.自然界、人間社会の中で、その環境につつまれて、人間は経験をつみ、学習をしていく。

つまり、
1.学習があり、行動があり、また学習をしていくという見方。
2.欲求・動機があり、行動があり、そして満足して、次の欲求・動機によって行動があり・・。

この1と2は統合される必要があると思う。

報酬や罰によって、経験のなかで学習し、より適応的な行動を身につけていく。という表現は言い換えると、「その報酬を求め、罰を避けようとする動機」があり、それを満足させてくれる目標を見出して、行動に及んだということになる。

繰り返した行動が強化されていくと考えるのか、

その欲求・動機が頻出するようになったと考えるのか。

マズローは「基本的欲求」という概念をつかっている。行動の背後には複雑な動機があるが、それを奥に奥にとたどっていくと、それ以上はたどれないという根源的な欲求にたどり着く。それを基本的欲求といっている。
より低次の基本的欲求は満たされることで、消失していき、次の高次の基本的欲求が出てくるという。

上記の混乱した議論は「欲求」と「基本的欲求」を混同しているところから、出てきているように思う。

同じ基本的欲求でも、その欲求を満たすために、もっと具体的な欲求、そしてさらに選択したある欲求という具合に細分化されていく。最後とのころでは、ある方法をやったが、うまくいかなかった、それで次には別の方法でやってみたという具合に、学習的な次元になっていく。

つまり、基本的欲求は生得的なものであり、学習によって身につけるものではないというマズローの意見は正しいと思うが、その基本的欲求を満たすために、発生してきたより具体的な欲求は、かなり環境の影響を受けて、相互作用のなかで変化していくように思う。

基本的欲求は、学習を成立させている内的な世界のエネルギーであるともいえないだろうか。

学習理論と動機論はつなぐ必要がある。実生活の活用ではそのように思う。

マズローよりになると思うが、「基本的欲求」は学習しないでもあるという仮説をとりたい。

感情は、それをジャングルなどの原始的な環境では適切に得るための行動パターンを生み出すが、あたらしい人間的な社会環境のなかでは「知性」によって、感情を制御し、行動を修正していく必要がある。

その行動については学習理論によって説明がつくということだと思う。基本的欲求だけでは行動化は本能的なものになってしまう。そこに知性をつかってより社会性のある行動になっていくことで、ひいては基本的欲求が満たせるようになるということだろう。

マズローは、心理学に「動機・欲求」の理論がないことに不思議を感じて、創設したようである。

人間が遺伝的な生物として、社会のなかで教育され、学習していく存在だとするのでは、人間の心は「白紙」のようなものであって、うまくいかないのは、誤った学習をしたからだという結論になる。

認知の方向性、枠組みなどは遺伝的に用意されており、パーソナリティーや能力についても遺伝の影響が強いものがある。

それ以外のものは環境のなかで身につけていく。学習である。

しかし、人間であるということは、学習の方向を決め、情報を選択し、行動の優先順位を決めているという側面があり、それにそって教育がなされている。

環境からは複雑な刺激が降り注いでおり、多彩な行動を繰り広げているのだから、無目的に学習がすすむとは考えにくく、マズローが想定したような「基本的欲求」というものがあり、その充足に向けて学習が進んでいくという整理が妥当ではないのか。


マズローの意見がテキスト類にも載っており「公共化」されたことは、本当にすばらしいことだと思う。

また、エリクソンは、生涯発達の考え方のなかで、生物的な変化をバックボーンに、社会文化的な環境と人間との相互作用になかで、パーソナリティーが発達していくというモデルを用意したが、単純な学習論ではない。

「徳」(基本的強さ)を人格の中に獲得していくプロセスとして描いており、学習といえば学習だが、それは白紙の心に描いていくようなものではない。

その段階の危機があり、それを乗り越えると手に入る。

前の段階が次の段階に影響しており、前の段階の危機を乗り越えることが、次の段階に進むことになるという。

つまり、環境からの学習だけでは説明できない、内的な用意された「プロセス」を想定している。
それを無視した発達はありえないといういみで学習だけでは説明できない。

むしろ、他者との間で、適切に満足して、適切に不満を感じ、その満足がまさると、次の段階にすすむという考え方は、マズローの前の段階が満足されるとそれは消えて、次の欲求が出てくるということに「似ている」

エリクソンの青年期以降の発達と、マズローの「自己実現」に共通性を感じている。

内的プログラムと環境との相互作用の二つの眼を持つことが大切であるように思う。
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2009/11/20

試験問題完成  

長崎市医師会看護専門学校 准看護科 患者の心理の試験問題完成。送信します。

学生さんのおかげで僕もまた学ばせてもらっています。


朝の散歩は寒いけど継続できています。
さまざまことを感じて歩いています。

自分の内部と語り、自然と語り、インスピレーションを得ています。

透明なエネルギーをつかっていきたいと思います。

必要な人に必要なときに出会えるという信念があります。

今は、僕のほうの「準備」を待ってもらっているのだと思います。

このブログやホームページのアクセス数をあげられるようにと、ホームページを管理してくださっている業者さんもがんばってくれています。

ヤフーやグーグルで、「長崎ストレスケア」でトップにでるように、ひいては「長崎ストレス」でも・・とのこと。

※グーグルでは実現しているようです。ヤフーではまだ7番目。

しかし、業者さんががんばってくれて、ウェブ上の出会いがあったとしても、ホームページなどの内容が「感動」のないものであれば、もったいないことです。

その意味で、今の控えめな内容をもっとお客さんの立場にたったものに変えていきたいと思っています。

このところ、自分が分かっていること、取り組んでいることでも、相手には簡単には伝わらないという「あたりまえ」のことを痛感しています。

そのためにも、ひとりよがりを離れた、おもいやりのある伝え方を研究したいと思っています。

まだ、半分ですがマズローの「人間性の心理学」をよんで、さまざまな気づきがあります。原著にあたるということがいかに大事かと痛感しています。
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2009/11/19

自分から  

9月に理論的な解決、統合ができて、伝える準備を続けているが
自分の気づきをそのまま話しても聞いたひとはとまどうばかり。

段階を追って少しずつ学んでもらう姿勢が必要。

マズローの原著を読んでいる。「動機論」

真木悠介(見田宗介)も「動機論」「欲求」の研究の重要性を指摘している。

このあたりに、段階的な説明のヒントがあると

あたりをつけている。

それから、同じ時代にさまざまな人がそれぞれの方法で社会がよい方向にいくように
本当のことを伝えようと努力している。

僕はそれらの人の活動に感謝もし、尊敬もし、できることは協力したいと考えている。

人間の可能性を信じるとは、それらの人々の活動の可能性を信じるということになる。

そして、問題は僕自身が自分の気づいたことを自分の生活や人生で展開しているかどうかということだと思う。

答えを探す旅が終わったら、今度は自分自身が「答え」になっていく旅がはじまった。

その意味では今がスタートである。

一本の木として大地に小さくてもたっている自分。

そういう自分にも平等に雨が降り注ぎ、太陽の光がエネルギーを与えてくれる。

大自然を信じよう。

いのちの働きを信じよう。

この現象の背後で働いている摂理を信じよう。

それらを味方につけてあるく道に不安があるはずもなし。

劣等感を克服したときに、無限の成長に向かおうとする「謙虚さ」を手に入れた。

孤独感を克服していくなかで、摂理につつまれている「安心感」が増えていくと信じている。

僕はもっとも安心で、確実な道を歩いているのだと思っている。
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2009/11/18

調和の科学  

昨晩は佐世保共済病院の研修会。

調和の科学を一枚の図にしたものと、実在の世界と認識世界の関係を図にしたもので研修をしたが、「難解」であった様子。

自分が分かっているものがうまく伝わらないもどかしさも感じたが、無理もない。これからの取組が大事。

息子に会って夕食をとったが、そのときに講義内容を話すと「やはり分かりにくい」とのこと。

これから数ヶ月かけて、もっと分かりやすくする工夫をしていく。

このブログでもいろいろな説明を試みてみたいと思っている。

理論と実践のバランスをとっていきたい。
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2009/11/17

研修会と人間観  

県立高校の学校長の集まり。中地区23校。

僕が強調したのは「人間観」。

変化を求めて、困難を乗り越えて、社会に役立とうとする人間像について
語らせてもらいました。

これが本来のハンス・セリエがとなえたことです。


「うつにならないため」、「ストレス被害を受けないため」

そのようなことを生活の目標として生きていけるでしょうか。


非常にこっけいなことが起こっています。


それぞれの職場の目標にむかって団結して取り組んでいくことで、

体験の意味が深まり、役立ち感、使命感が出てきて、
相互理解が進み、当然、ストレスも軽減していくのです。



カウンセラーや心理療法士のいうことは「限定」されたところでしか、通用しません。



どのような人間として生きていくのか。

その答えを探す手伝いをすることが本当に社会に役立てることなのです。

その意味で人生哲学が必要です。

多くの校長先生に共感していただけました。



今日は佐世保共済病院で准看護師の方の研修です。

ステップアップしてもらいます。
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2009/11/16

矛盾の解消  

昨日の自主セミナーは人数は少なかったが、非常に有益であった。

「暮らしに活かすやさしい人間学」の骨格となる「認識世界の誕生」「物質と精神とは何か」について新資料で学習しました。

BT学を学んだ人で予備知識があったからなのか、あるいは初めての方でも理解可能なのかは分かりませんが、難解、高度な話をよく理解してくださいました。

受講者も僕も「安心」と「勇気」が出てきました。知恵は眼には見えなくとも確かにそこにある真実をみせてくれます。

今日の県立高校校長会の中地区の先生方、20数名の方の研修会でも、その中の資料を使ってみようと思いました。


BTUから独立してのち、僕の目標は基礎学の充実とそれを活用した人間学としての発展でした。具体的にはどれだけのオリジナル資料が作れるかという目標を持ちました。


そのために、もういちど様々な科学を学びなおして「なぜ、どうして」ということを問い直していきました。

25年まえにできたBT学の基礎となったであろうバックボーンの文献をできるだけ探して学ぶこと。もちろん、その一部分にしかすぎないでしょうが、原典にあたるということで力をつけていきました。


それから25年の間に科学の世界で「変わったこと」「進んだこと」、それを探求してきました。そうしないと、今日の学問を身につけた人の教育ができないと考えたからです。

心理学系の大学を卒業した若い知人が、専門書や資料、ノートを全部貸してくれました。それを独学で学ぶということに取り組んでいましたが、不足するところも多く、意を決して人間総合科学大学に入学して働きながら「大学生」として、最新の科学を学習する日々を送りました。レポートや試験に追われ、スクーリングのために埼玉にもずいぶん通いました。

現場に役立つことを願って卒論のテーマは不登校問題として多くの文献を読んでまとめあげることができました。

また、医学周辺の知識、健康科学、心理学などを深めていきましたが、心理学の不足を痛感していたところ、看護学校の「患者の心理」の授業で「心理学の概要」を講義することとなりましたので、授業前に何冊もの専門書を読みながら準備をするという繰り返しで、この1年間で少しずつ力をつけていきました。

それとBT学に出会う前、私は二十代のころから、そして今日まで、財団法人モラロジー研究所の活動にボランティアとして参画しながら、様々な人間学の講座を受け、聖賢の教えや人間科学について学び続けてきておりました。

そのなかで仏典や古典にも親しんできましたが、それらの考え方とも矛盾のない「知恵」を得ようとして努力してきました。

その苦闘のプロセスは、この6年近くの間に拙著数冊、そして講演、研修用の膨大な資料となって結実してきました。また、もうすぐ「いのちの物語」の読み聞かせ本もできます。

しかし、人間総合科学の立場、心身健康科学の立場、ストレス学、バランスセラピーの立場、モラロジーの立場、仏典や聖賢の教え、そして認知心理学をはじめとした近年の心理学、それらを総合するにはどうしたらいいのか。

また、若いころから頭の中に沸いてくるイメージがあり、それが詩や物語になってきましたが、その象徴するところ、意味するところは深いものがあるのですが、それもまた「統合」しようとしました。

自分の頭のなかに、主人がたくさんいて、争っているような状態が長く続きました。

理論的な統合を真剣に思いつめていたものですから、夢にまで出てきました。

「本当は一枚の掛け軸なのに3枚に分かれていて困惑していた」あるいは、3個の宝玉があって一個足りない夢」などをみるなど、ねてもさめても「統一理論」というものを探求してきました。

僕の長所は「あきらめない」ことです。それと「分かっていないこと」と「分かっていること」を明確に分ける力です。

ついに、眼が開くときがやってきました。9月11日の朝の散歩のときに、もやもやと固まっては崩れ、固まっては崩れていた心の中で、霧が晴れてずっと先まで見通したような心境となり、それまでいだいていた一切の「矛盾」が氷解しました。

それぞれの教えや学問、知見が、全体のどの部分を言っていたのか、どのように関係するかが、やっと見通せたのです。

本当に嬉しい瞬間でした。

ホームページのコラムに展開してきている「調和の科学」を骨格として、さらに、大きな体系が生まれてきています。

そのなかでは仏典も科学もBT学もモラロジーも僕の物語も一つにとけあっています。

「暮らしに活かすやさしい人間学」は、「響き愛、照らし愛」「育て愛」「学び愛」の人生を展開するような学問となっていくでしょう。

これから、それをどのようにテキスト類にしていけばいいのか、この気づきを補強する「資料」「論文」を探していく必要があります。


あと、3年はかかるのではないかと思っています。しかし、その途上でも「僕の頭の中には統一理論があるのですから」、それを伝えていくことになります。

僕の寿命がどれくらいあるのでしょうか。もうすぐ50歳になる僕はこの天命を全うできるのでしょうか。それは分かりませんが、もう「手加減」をする余裕もなく、全力で社会貢献をしていきます。

今、社会人の生涯学習業界、カウンセリング業界、企業の社員教育業界をみても、閉塞感があります。

次々と、新しいもの、珍しいもの、すぐ効果があるとされるものについて、ビジネスとして百花繚乱の有様です。そのありように、僕は様々な疑問を感じています。本当に社会問題や個人の成長に役立っているのでしょうか。

教育とはそれでいいのでしょうか。僕はこれまで「本当のことを知りたい」という動機で学んできました。自分のために学んできました。

まだまだ学習も続きますが、僕が気づいたことだけでも知ってもらえば、それほどの複雑なハウツーを学ぶ必要はないのではないかとも思っています。

シンプルなことをシンプルに心に入れていく、習慣としていくことでいいのではないでしょうか。

どのように伝えていけばいいのか。毎日が実践になります。僕には僕にしかできないことがある。そのように思っています。

明日は佐世保共済病院の看護師の方の研修会。

新しい酒を入れる新しい皮袋がほしい。そのような心境です。
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2009/11/14

今日から。  

これから、このブログも再出発します。

自分の使命にむけて行動するためのツールになっていくでしょう。

自分の信念を伝えていくための「熱」を帯びたものになっていくでしょう。

いのちの声を伝えていくということに徹していきます。

このブログが本当の意味での「響き愛 照らし愛」になりますように。
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2009/11/14

調和  

「すべて」から「自分」という個体を分けたときに僕たちのそれぞれの、そしてみんなの世界が出現する。

しかし、もともと「すべて」は調和したものである。

個体からみれば、不調和が生まれ、調和になっていくという連続に見える。

不調和も調和にいたる途上であり、調和の一部である。

「すべて」に触れることは僕らはできない。

なぜなら、「すべて」から「個体」を分けて、その個体と「すべての残り」との関わりのなかで世界を認識しようとしているのが人間だから。感覚→知覚→認識。

目の前にあるりんごは赤い光と丸い形を過去の記憶と言葉に照らして「りんご」として見えているのであって、光がなければ見えない。

食べたときも、化学物質を味覚で把握してのであって、「りんご」そのものは「個体」がそうであるように「すべて」の一部であって、五感を使った認識では把握することはできない。

五感は身体に刺激を与え、身体の中ではさまざまな変化があり、その変化は「認識世界」を生み出そうとする。

身体への刺激を介してしか「身体を除くすべて」と関わることはできない。しかし、身体も、もともとは「すべて」の一部であったので実は身体を含んで「調和」が働いている。

しかし、そのままでは混沌とした刺激を身体が受けて、混沌とした世界を「認識」することになってしまう。

そこで、それぞれの個体は社会を生み出し、その関わりの中で「言葉」を生み出した。概念を生み出した。

社会文化の流れのなかで、歴史の流れのなかで、多くの人の共通の思いが「言葉」となり、共有されて、認識世界に流れ込む。

言葉とは「分ける力」である。調和している「すべて」を言葉によって分けていく。その指し示すものと、それ以外のものに分けることで認識ができる。

個体はすべてを認識世界に取り込んで、それを言葉で分けていくことで「世界」を心の中に生み出した。その意味では我々が知っている「すべて」は心のことである。

その「心」を言葉で分けていく。

「物質世界」とは、他者との共通感覚(視覚、聴覚中心)によって客観的に誰もが認識できるものである。その心中の像ではなくて、それが指ししめす「すべての一部分」を物質世界とした。

一方、他者からはうかがい知れない、その残りが主観的なもの、すなわち「心」であるとされた。そのようなわけ方によって「物質世界」が生まれる。

同様に、様々な言葉が「分けていく」ことで認識世界が複雑になっていく。

僕たちの認識はそのようにして、さらに統一した「すべて」とか、その「調和」は見えなくなっていく。

もともとは「すべて」から「個体」を分けたことで認識世界が生まれたが、実際には、その個体は明らかに「すべて」の一部分であって、切り離せない。
また、認識世界に流れ込んだ他者の認識の流れ、社会文化、歴史的な流れもまた、その全体と「個体の認識」を分けることはできない。

その意味で、僕たちは「すべて」であるのだが、それを誤解して「個体」として、「個体意識」として生きることで矛盾が大きくなっていく。

このような事情が明らかになれば、「調和が調和を生み出す」ということは、自分がすべてであるということから、明らかになっていく。

この話をどのようにしたら、もっと簡便に、分かりやすく、まとめることができるか、納得と実感を得ることができるようになるか。

それが課題である。

この文章が難解であることは承知しています。ここからの出発です。
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2009/11/13

僕の使命  

日曜のセミナーでは「心とは何か」について講演をします。

ずっと考え続けてきた問題。その答えを今の自分なりにまとめます。

このブログを読んでこられた数人の方は、そのあらましを読んでこられたとも思いますが、僕の中ではいのちとは何か、心とは何か、魂とは何か、生とは死とは何か。
それらの答えが現時点で「合理的」に誰にでも納得できる形で説明できるようになったと自負しています。

今の時代はおおきな変化のうねりがあって、さまざまな分野や立場で「いのちの声」を伝えていく人たちが増えてきています。直感に基づく実践が増えています。


もちろん、それに逆行して、非科学的な説、先祖帰り的な説や、学問の枠に固執した説、わざと結論を出さずに神秘的にしておこうとする説など、混乱もあります。

しかし、現時点での科学を総合していくとおのずと明らかになっている結論があると思うのです。

現代社会のストレス問題は根源的には「自分とは何者か」ということを見失ったことに起因しています。

それを見失ったまま、社会をつくっていくことで、人間のあるべき姿や幸福から遠くなってきているということが理論的にも明らかにされたと思うのです。

僕には特別な力があるわけでもなく、普通の凡人が普通に学んできて明らかになったことを伝えようとしているところに意味があるのだと思っています。

もし、「いのちの声」が特殊な神秘体験をしないと分からないことだとすると、一般の方々は信じることができないと思います。

しかし、現在の科学を統合していったときに明らかになる結論であれば、それは学びあい、育てあいの中で、「誰もが」それを会得することができます。

僕の使命はここにあるのだと思っています。

暮らしに活かすやさしい人間学の一歩は、人間とは何であるか、それを科学的、学問的に統合しておさえること。

そして、その視点から毎日の生活や社会のありようと見つめなおし、できるところから変革していくこと。

僕がやるという「決心」が必要なのです。

その一歩として「心とは何か」についてまとめます。

僕は、自分が分かったことを伝え続けていきます。常識があれば誰もがそうだと納得できる話、神秘的ではなく、科学と矛盾しない話をしていきます。

そして、一方では物語という感性に伝えていく方法で伝えていきます。

神秘的、超自然的な方法ではなく、迷信でもなく、自分の思い込みを押し付けるのではなく、科学の延長で「いのちの声」を伝えたいのです。

それが僕の使命だと思っています。
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