今、色々なことを学び、考えていますが、メモ代わりにここにも書いておきたいと思います。
拙著「生命の詩」でも検討して書いたことでしたが、私たち現代人の陥りやすい罠として、「観念化」がある。
脳で理解しやすい一つの考え方にしがみついて、現実のほうをそれに合わせようとする心理。
現実こそが真実といい続けても、不都合になるたびにそうは思えない。
自然法則に従った生き方を求め、広げている私たちであるが・・
観念と「自然法則」は違う。
これが自然法則です。と言ったとたんにそれは観念になる。
もちろん、身体は自然法則を知っているが、それを考えて言葉に出していくと「脳化」して「観念」になる。
だから、学ぶことがさらに錯覚をましていくということもある。
しかし、学ばないと、自分で正しいと信じていることにしがみついて、ますます自然法則から遠ざかっていく。
学ぶとは「答え」や「真理」を得るためではなく、学ぶこと自体に意味がある。
われわれは、結果重視の価値観の中で、学んで何を得るのかとすぐに問う。
自分の体験に意味を見つけていくことで、現実とバランスをとっていくことはもちろん重要である。
しかし、それは何かのためにすることではなく、それが生きるということであるのだから、「学び」ということもその文脈で位置づける必要がある。
生きるなかで「学ぶ」とはどういう意味を持っているのか。
ひとつは、「自分はすべてを知ってはいない」「知っているように思っているだけで、大切なことは知っていない」という態度を取り戻せるだろう。「分かった」といって学びをやめたときから、この謙虚さを失っていく。学びは生き物なのに、知っていることが「ドグマ・偏見」になっていく。
次に考えられることは、体験の中で自分だけで思索することと違って、他者の研究結果を知り、先人の考え方に学ぶことは、これもまた「関わり」ではなかろうか。
自分という存在に他者の研究を取り込んでいくことは、自己をそれらと統合していくことであり、広げていくことになる。関わりの中でわれわれは成長するのであるのだから、学びという関わりを続けていくことは、生きるということであり、人生そのものではないだろうか。
呼吸のように、必要なものを取り入れて、不必要なものを吐き出していくことが生命であり、そのことで全体の中で、システムとして、居場所を確保しているのが我々である。
自分の中のものにしがみついては、呼吸ができない・・・
など考えています。