
「浄光寺」(長野県小布施町)
「風流な注意書きですね」
「いや、それほどではありません。元は、『手に取るなやはり野に置蓮華草』です」
「花はあるべき場所にあってこそ、ということですよね」
「でも、実はこれは比喩でして」
「と言うと・・・」
「この作者は、滝野瓢水という人でして、知人が遊女を引き取ろうとしたときに、たとえで詠んだものなのです」
「えー、そうなんですか? 知らなかった」
「もちろん、遊女の美しさについてです。遊女というものを認めていた差別的社会制度については何も言っているわけではありません」
「ところで、私は、れんげとすみれの違いがよくわからないのですが」
「そのような人は都会にはたくさんいらっしゃるでしょう。苦にすることはございません。私どもが池袋と渋谷のどちらが北にあるかなどが分からないのと同じです。『すみれんげの花 咲く頃♪』と歌う人さえいます」
「あっ、それ、知っています。このまえにNHKの朝ドラにもなったやつですね。そのオリジナルは『ライラックの花咲く頃』だったようですよ」
「そうですか。へーえ。確かにいろんなものがオリジナルを離れていきますし、異説も生じます。蓮華草だって、ゲンゲという言い方がされる時もあります」
「真実は一つ、とは名探偵コナンの言葉ですが、探求不能になった過去を無理に1つにきめるのはファシズムですね。曖昧さを引き受ける知性を持たなければいけませんね」
「おっしゃる通りです。このレンゲの句だって、ギリシャ神話にある話と似ています。蓮華草はすべてニンフが変身したものだったのですが、ある姉妹が蓮華草を誤って摘んでしまいました。そうするとその姉妹が、代わりに蓮華草に変わってしまいます。そして、「花はみな女神が姿を変えたもの。もう花は摘まないで」、と言い残したそうです」
「昔日本では蓮華草を牛がたくさん食料として食べていたそうですね。そうすると女神を食べていたんですから、牛は神聖中の神聖な動物ですね」
「何事も見方1つ、ということはございます。解釈はどこでとどめても結構だと思いますし、どこまで行ってもよいと思います。美は見る者の目の中にあるという言葉もございます。瓢水は、紅葉の名所摂津の禅昌寺にて、『本尊は 釈迦か阿弥陀か紅葉かな』と詠みました。私などは悟りとは秩序への美的感動なのではないかと思います。無限の風流は、悟りにつながると考えております」
「すべての道は悟りに通ず、ですかね」
「その通り」

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