突然で、何の脈絡もないが、電撃戦はドイツ軍の専売特許ではないのである。
ベルサイユ条約で再軍備が著しく制限されたドイツはソ連と条約を結び、ソ連領内で新型戦車や航空機の開発(と、当然戦術も)を研究しました。
ところで、ドイツの電撃戦ですが、実はパンツァー・クライストなどとも言われたクライストですら、電撃戦が有効であることを自分の目で見るまではその効果を疑っていました。
ドイツ国内には、戦車と航空機を駆使した電撃戦を信奉するグループと、要塞線・塹壕などを重視する拠点防御を重視するグループがありました。
前者は第一次世界大戦の東部戦線からの戦訓を生かしました。
東部戦線では兵力密度が低く、独墺軍とロシア軍の部隊が5km以上離れ、その間に耕作している農民がいることもあったくらいだったそうで、部隊間には隙間があり、タンネンベルグの包囲殲滅戦、ロシア軍による包囲から味方軍の解囲に成功したロッヅの戦い、ロシア軍によるブルシーロフ攻勢や、ゴルリッツ突破線といった機動戦が戦われました。
ここから出てくる結論は当然機動力の向上と改善、そしてこれを助ける近接航空支援のあり方の研究、となります。
ここから出てくる戦車は、必然的に、快速性が重視され、必然的に装甲は比較的薄くなり、敵戦車との遭遇戦を考慮して対戦車砲を搭載することになります。
で、東部戦線から戦訓を引き出したのは何もドイツだけではないわけです。
文字通り自国領内で新兵器の共同開発を行ったソ連もまたドイツ同様の機動戦の概念を生み出しました。
トハチェフスキーなんかがその代表です。
・・・・が、1934年にライバルのキーロフをぶっ殺して調子こいたスターリンはやっちゃった。
つまり、最初のうちは粛清対象を政治家に限っていたのに、その後方向転換し、せっかく育った機動戦の申し子達を次々銃殺したり、収容所送りにしてしまった。(独ソ戦開戦後、収容所から前線に復活して果ては元帥にまで昇進してしまったメレツコフなんて奴もいます。)
かくして1939年までにはスターリンによる赤軍の無力化が完成し、士官学校を出た学生がいきなり佐官とかになることや、大隊、連隊、果ては師団をすらあずかることがあったそうな。
彼らはあまりにも素人同然で、1942年に第2次ハリコフ会戦の際にも「準備砲撃の仕方」をスタフカが丁寧に指導してやる必要がある有様でありました。
1939年〜41年というのは、実は赤軍の戦闘能力が異様なまでに低下していた年なのであります。
電撃戦は何もドイツが生み出したのではなく、第一次世界大戦の戦訓を元に独ソ両軍が生み出したものであります。
翻って、第一次世界大戦の西部戦線では延々と塹壕戦が戦われました。
機関銃の前には歩兵の突撃は集団自殺でしかないことが認識され、敵前線を突破するには、戦車に支援された歩兵による浸透戦術が一般化しました。
従い、西部戦線の戦訓から生まれた戦車は、重装甲、(歩兵の突撃支援のため・敵機関銃座などの制圧のため)榴弾砲装備、鈍足でした。(フランスの戦車とか、イギリスの歩兵支援戦車とか)
ちなみに、帝国陸軍は第一次大戦の西部戦線の教訓を見事に吸収しており、1937年の南京攻略戦では完成された浸透戦術、分進合撃による中国軍の包囲殲滅など、見事な戦いぶりを示しました。また、97式戦車は歩兵支援戦車としては極めて理に適った装備の戦車で、優秀戦車と言ってよいと思います。そもそも97式戦車は基本的に対戦車戦を想定していなかった戦車なのですから、シャーマンに敵適わなかったから駄目戦車の烙印を押すのは可愛そうです。
さりとて、満州はともかく、華北、華中や、南洋諸島といった想定戦域でドイツ軍のような機動戦を想定した戦車が活躍する場面は想定しずらく、また、対戦車戦を想定した重戦車を開発しなかったのは仕方がなかったと思われます。
可能性として、帝国陸軍でもあり得たかな、と思うのは、超壕能力に優れたイギリスの重歩兵支援戦車であるチャーチル戦車のような戦車でしょうか。
ま、製造能力があれば、の話ですけど。

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