2105年の日本の人口は、4100万人程度になることが予想されています。
江戸末期の人口が3000万人程度でしたから、これは明治中期の人口へ戻ることを意味します。
とりあえず、その前の、日本の人口が1000万人を超えた、1450年ころから江戸末期までの顛末について。
>>江戸時代の最初の100年間に日本の人口は1200万人から3000万人へと2.5倍に急増しました。
この時期に日本の人口が急激に増えた理由のひとつは、大規模な新田開発によります。
戦国時代が終わり、最初に政権をとった豊臣氏は、内戦という景気対策に変わり、朝鮮出兵という手段で応じました。
しかし、これが見事に失敗。
その後に政権をとった徳川氏は、今で言うところの公共事業を行います。
金は潤沢にありました。
新田開発、(有名な木曽川の治水工事は、御三家の尾張家の領土の治水対策を、薩摩の島津氏にやらせました)と治水・灌漑を行い全国で耕地面積が増大しました。
お陰で尾張家(61.8万石)の実高は100万石に達したといいます。この他、北上川の下流域の開発に成功した伊達家(62.5万石)なども実高が100万石を越えていたそうです。
実は、5代綱吉の前後で日本の耕地面積はピークに達しました。
その後は、平地を利用する際には田んぼを潰して利用するしかなくなりました。
その為耕地面積は微減傾向を辿る事になりました。
この為、人口の伸びも止まってしまった分けです。
耕地が養うことの出来る人口を超えれば、現在のように穀物を海外から安定的に供給できる状態にない当時の社会では人口は増えません。
そう考えれば、人口が伸び悩んだ原因を政治に求めるのは困難であると思われます。
幕府は新田開発の他にも、五街道の整備や、参勤交代などの景気対策を行ったり、大名に行わせたりしました。
その結果経済が浮揚し元禄時代にピークを迎えます。
その後幕府は景気対策の総仕上げとして減税を行いました。
戦国期は七公三民程度だった税率が、最終的に三公七民程度まで引き下げられ、下々の可処分所得を増やし、消費に火をつけます。
そして、このころから、農村の余剰人口が都市に流れ込み、世界的にもかなり早い段階で日本では都市化が始まりました。
当時、都市人口が10%を超えていたのは日本と中国だけだったはずです。
ただ、当時の都市と農村の立場は今とは逆で、長男は農村に残り家を継ぎ、次男以下が仕方なく都市に行く、というのが一般的で、長男が夭折して都市から次男が呼び戻されるよ うなことがあると、当人は大いに喜んだそうです。
当時の日本には伝染病に対する隔離という習慣もなく、また、所得も低く、結婚も困難で、都市での出生率は優に2を切っていました。
平均寿命も農村に比べて短く、スラムの一歩手前という状況だったと考えて良いと思います。
17世紀に、江戸の人口が100万で、京都が40万、佐渡の相川(金山の山元)が5万程度だった、ということは、それだけの余剰人口が農村からあふれ出て、都市に集まって きた、ということを意味します。
そして、劣悪な衛生環境の下で、これらの人口はバタバタと死んでいったことになります。
但し、唯一の救いは、利益を挙げた商人の資本の再投資先が限られており、そのかなりの部分が不動産投資に向かいました。
つまり、長屋を建てては町人を住まわせたわけです。
儲けた商人がこぞって長屋を建てるものですから、その家賃は値崩れを起こし、現代の感覚に照らしても相当安かったそうです。
因みに、当時の大工の日当は現代の円価換算で5千円程度だったそうです。(将軍は16億円程度だったそうな)
まあしかし、現代に比べれば、金があっても受けられるサービスにはそれ程差がなかったし、将軍にしても病気になれば気合で治す以外にはほぼ手段がなかった。(当然だが、点滴すらないのだ)
現在に比べれば所得格差の意味するものは小さかったと思われます。
因みに、中国では日本に若干遅れて、18世紀の半ばころまでに耕地面積がピークに達しています。
今でも中国の農村部に行くと、各地に棚田があったり、華中、華南の奥地の農村では斜面に茶を植えるなどして、土地を目いっぱい使っていますが、これらの山奥の村落が開かれ たのは概ね清代で、地丁銀の税制が人口増を招き、これによって耕地開発が促されました。
その他、飢饉による影響では、日本では藩毎に米や食料などを地方政府間で行う体制がなく、ある藩が飢饉でも、隣の藩では案外に平和であることも珍しくなかったそうです。
武家政権ですから、商人まがいに流通に手を出すわけには行かなかったのでしょうか。
また、飢饉の際には現地に食料を供給することも大切ですが、それ以上に貨幣を供給することが大切である、ということが江戸中期までに徐々に知られるようになりました。
飢饉の際には米価が高騰しますが、高騰した米を買い付けるためには貨幣が必要だからです。
それ以前の戦国期は、飢えたら隣を襲って、飯を奪う、でしたから、飢饉対策のノウハウは蓄積されていなかったと思われます。
飢饉で必要以上に犠牲者が出たのは事実と思われますが、その時代にはまだ飢饉に対して柔軟に対応できるノウハウも、政治システムもなかったのですから、ある程度は仕方がな かったのではないかと思われます。

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