吹奏楽団には「研究会」を名称に付けているところが数多くありますが、
何を「研究」しているのでしょう?
「分裂勘違い君劇場」さんの
「
ワーキングプアのNHK特集で取材された秋田県仙北町出身の友人と今日、昼飯を食いました」
とか
「山河に在りて」さんの「
埼玉県北部の田舎からの一考察」を読んで思い出したんですけど、
日本で明治時代に学制が敷かれたときに反対した人達が
「百姓に学はいらねぇ」と言ったとかいう話を聞くことがありますけど、
少なくとも江戸時代から「農学」はあったんですよね。
「農学」という言い方がされていたのかは知りませんが、二宮尊徳さんは確か「農学者」だったはず。
現在では植物の遺伝子だの品種改良というような一般人には難しいところまで研究されていますし、
上記2blogで指摘されているように、仲間内や仲間ではないところまでも情報収集の網を張り巡らしている人ってのは数多くいるわけで、どこだか忘れてしまいましたけど
「もはや農業は情報集約型産業である」と言う人もいます。
農業ではありませんけど、北海道の旭山動物園が試行錯誤の末に成功したアイディアを、別の動物園でもそのまま採用していることがあります。
パクリだの安易だのといった批判は甘んじて受ける、それよりも自園が生き残ることを優先するという姿勢は、学は真似るという基本に忠実なだけだと言えるのかもしれません。
まぁ旭山動物園に行けない人にとってみれば、近所の動物園でやってくれるのは、大変ありがたいことでもあるはずですが。
…んで吹奏楽は?
どんなことを研究しているの?
情報収集や交換はどれくらい活発なの?
例えば「分裂勘違いくん劇場」さんの指摘
>>現金が少ないから貧乏だ、というのは、現金がないと生活が苦しくなる東京者の発想に過ぎない
というのがある。
管弦楽団が東京というか都会に集中しているのは仕方がないことだという常識があるけど、(今の私にその常識を覆すだけの知識も力も無いけど)
農村文化、例えば貨幣経済に都会ほど依存していない姿勢等をきちんと研究した上で、
農村文化で流通している価値観の中に、西洋クラシック音楽は何を与えられ、何を貰うことが出来るだろうか?
という研究は、吹奏楽研究なり管弦楽研究の名に値しないのだろうか?
貨幣経済を前提とした(特権階級をパトロンとする文化、もしくは市民革命以後の音楽ホールが主な活躍の場である、そして大編成オーケストラ)西洋クラシック音楽を前提としているから、寄付だの税制だの行政からの援助だのに束縛されるのでは?
(まぁ
ここで紹介されている現実もあるはずですが(^^;))