ザ大衆食つまみぐいさんのエントリ
「
「安くておいしい」と「おいしく食べる」のあいだ」を読みまして、
「安くておいしい」を音楽に当てはめると「安くていい演奏、楽しめる演奏」になるけど、
「おいしく」を変換するとどんな言葉になるだろう?と考えまして、一応「わくわく」としてみました。
お客が演奏会で「わくわく」したいと望み、どうしたら希望が叶うか演奏家に聞くと、たぶん
「客席で携帯電話の電源を切りましょう」とか「演奏中に隣の人とお喋りするのはやめましょう」という方向の、聴衆としてのマナーを言われると思うのですよ。
でも質問した人がレストランでおいしく食事をしたいからと料理人に質問したら、そりゃ
「他のお客さんに迷惑をかけないようにしましょう」方面のことは言うでしょうけど、それよりも
「気の合う人と一緒に行きましょう」とか「苦手な食べ物は給仕に言って除けて貰いましょう」という、
「自分の希望を述べましょう」方面を言うと思うのですよね。
お客の立場に立って演奏会のあり方を考える演奏家・事務方って、どうなんでしょう、どれくらいいるのでしょうか。
そもそも「おいしく食べる」に相当する音楽文化の言葉が簡単に見つからない事態がお客の主体性が二の次のような気もするのですが。

「それから、もう一つは、街には「安くておいしい」という尺度にあてはまらないで成り立ってきたモノやコトが、たくさんある。それは、人間には、「おいしく食べる」という文化があるからなのだが、マーゲティングと消費主義は、そのことを忘れさせる力を持っている。
しかし、ことによると、「おいしく食べる」学習によって、「安くておいしい」モノや店が発見されているのかも知れない。となれば、「安くておいしい」モノや店を評価して歩くのもよいだろうが、それをするニンゲンの「おいしく食べる」学習能力も評価の対象になってよいはずだl」

という意見を肯定するならば、吹奏楽コンクールでの聴衆マナーの悪さを改善するアイディアの一考になるはずだ。
(芸術家は経済効率主義に反対する感じがあるけど、盆暗な共同製作者には厳しく当たるという制作効率主義を採っている人が多いということもあるけど)
マナーの悪い人達って、「おいしく食べる」に相当する訓練を受けてないでしょう。
自分が「おいしく食べる」経験を積むことによって食文化なり音楽文化への敬意が自然に培われ、他のお客への気配り、マナーが身に付くわけで。
も一つ、同じくザ大衆食つまみぐいさんのエントリ
「
ありふれたものを美味しく食べる」の

「食育」だろうが「栄養」だろうが、けっきょく「ありふれたものを美味しく食べる」ということをヌキにしては成り立たない

という言葉を否定する人達が、選曲が演奏会に来る人の多寡を決めると信じているのでしょう。
演奏会を「ありふれた曲を××聞かせる場」にしようと思ったら、ステージの上に演奏者を並べて客席を同一方向に向けて、という演奏会のあり方自体を考え直すでしょう。
自分たちのイデオロギーを前提条件にして、美味しい(よい)曲・演奏を用意して、それでお客を呼ぶという姿勢が時代遅れになっているのではないか、という議論が必要だ。
ザ大衆食つまみぐいさんのカテゴリ「
ありふれたものをうまく」を読み、冒頭の「ロワゾーさんのお言葉」を音楽文化に変換すると、
“普通の”家庭に育った子供に対して「君のご両親が君にクラシック音楽を教えるのは、無理だ」
という姿勢とか、両親の方が子供に、「クラシック音楽を勉強したいのならしっかりした先生の習わないと」という姿勢が非道い物なんだと言えると思います。
両親が子供に、クラシック以前に音楽を教えてやれと。そしてテクニックとしてのクラシックを身につけるために先生の所に連れて行け。
先生の所に連れて行く前に両親が「音楽の素晴らしさ」を教えないと、優秀ではあっても日本文化に根を生やした音楽家は育たないでしょ。
民謡や雅楽の旋法を採り入れれば済む問題ではないわけで。

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