「しなければいけないこと」と「足りないもの」を考えることは、共通の部分もあるし、違う部分もある。
どうしたら演奏や合奏がうまくなるかとか、コンクールで良い賞がとれるかとか、新入部員の増やし方・惹き付け方がテーマとして重視されている時代と、
日本人による日本人のための吹奏楽オリジナル曲が必要だと言われていた時代と、
顧問の先生に向けた部活動運営の情報交換が求められていた時代とでは、
共通する要素を見つけることも出来るし、それぞれに深めようと特化できる要素もある。
しかし。
いま吹奏楽の雑誌などが採り上げている題材って、「こうすべきだ!」とか「これが不足している」ではなくて、「こうしたらいいんじゃないでしょうか?」とか「こういう情報・事実もあります」てな感じの、「補強・補完」じゃないですかね。
それだけ吹奏楽の文化が成熟したのかもしれませんが。
どんなに吹奏楽コンクール全国大会で客席を感動の渦に浸らせたとしても、極少数の人達を除いて、社会に出たら何の共感も持って貰えなくなることと、
学校を卒業したら吹奏楽との関わりを一切絶って思い出すことが無くなるんだよと言われても、学生時代に吹奏楽部に全力投球するということは、
限界は解っているし、その限界を超えられればそれにこしたことはないけれど、限界を超えられないからといって泣き叫ぶほどの子供でもない、という認識が主流なのか。
どこのblogに書かれていたことか見失ってしまったのですが、日本でマンガがここまで認められている理由の一つに、
思春期の琴線に触れる作品に、日本人は子供でもなく大人でもない時期に接している→現実の子供や大人ではない、概念としての子供や大人に同調しているから
子供の時期の一過性でない、大人になっても読まれる文化になったんだ、という指摘がありました。
吹奏楽って“部活動”は守備範囲だけど、曲は思春期の感性なんて扱わないからなー。
以前書いた
「パレードで演奏をする楽団は行進曲だけを吹くわけではない、パレードに使える曲だったらなんでも行進曲にしてしまうんだ」
の変形ですが、
「思春期に吹いた曲は一生の思い出の曲になる可能性を持っているけど、思春期の心情をテーマとする曲(というよりジャンル?)は存在しない」
ということでしょうか。

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