リヒテルの演奏するレコードをひさびさに聴いた。バッハ「平均律クラヴィア曲集」第8番BWV853である。この曲を教えてくれたのは、昨年4月に亡くなったOである。1975年頃だったろう。私は大学を卒業したが、就職が決まらず、東京でぶらぶらとしていた。一方、Oは大学を中退して、神奈川の藤沢のおじさんの所に居候していた。
お互いに、将来が見えない状況の中で、私が藤沢を訪ねたときだった。学生の頃から、レコードをたくさん持っていた彼は、黒い3枚組のレコードを持ち出して、そのなかでもこれが一番好きなのだと言ってかけたのが、
−バッハ「平均律クラヴァイア曲集」第8番BWV853−
だった。静謐な曲だった。
私はその後まもなく、その高価なレコードを手に入れた。32年前のそのレコードを今も持っている。私にとっても、バッハを最初に、心から好きになったのはこの曲だった。今もって、バッハへの扉を開けてくれた故人となったOへの感謝が心の中を大きく占めている。

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