遅ればせながら、3月のえんだよりです。
これからおひさまさんのお泊まりや卒園式なども書いて行こうと思います。
3月の聖書の言葉
「主は私の光、私の救い、私は誰を恐れよう。」詩編27:1
東日本大震災から6年が経とうとしています。当時の様子や祈りがキリスト教保育誌に載せられていました。「神さま、あなたは天地を造られました。この苦しみの真只中にもいて下さり、全てをご存知です。私たちに今出来ること成すべきことを教えて下さい。この教会も、幼稚園ももう一度あなたにお捧げします。主よ、被災された方々の為に私たちを用いて下さい。」
人生には予期しない様々な出来事が起こり、私たちはその中で翻弄されたりします。自分自身の中の暗闇も見ます。でもその時に、このような祈りが与えられることはまことの希望です。八方塞と思えても天は空いているという事実が私たちには救いではないでしょうか。
今月のテーマ「希望」
森の風を開こうと思ったとき、「子ども達に希望を残したい」と思ったのです。いのちの感覚の薄れた社会の中で、自分自身に対しても、社会に対しても絶望を感じてしまう人たちが増えている、悲観的な予測もよく聞く。教育現場での知識の切り売りや小手先の技術では間に合わない、子ども達を自然の中に委ねよう、と思ったのです。千草のある年齢に達した人達の体から出てくる言葉の力強さに圧倒されました。田んぼから湧き出してくるいのちの多さ、包まれている心地よさ、毎日違う情景、身も心も癒されていくようでした。「希望」を感じました。この里に子ども達を委ねよう。自分自身の子ども観も教育観も人生観も宗教観も焼き直そうと思ったのです。あれから10年が過ぎました。予想もしなかった地点に立っています。
毎日、心が動かされない日はありません。一年間、子ども達は手の中に何を握りしめて帰ってきたでしょうか。石ころから蛇まで数えきれないいのちが子ども達の手にありました。お母さん方は子ども達の匂いを嗅がれますか?きっと毎日土の匂いだったり、煙の匂いだったり、木の匂いだったり、様々でしょうね。匂いだけで今日は何をしたかって嗅ぎ当てられたらすごいですね。毎日、子ども達はもちろんのこと、私たち大人も「いのちの感覚」が揺さぶられ、目覚めさせられています。「体丸ごとの知恵」が毎日刻まれています。
私が残したいと思った「希望」の一つは子どもたち自身の体に刻み込まれる知恵や力です。もう一つはそれを育んでくれる環境です。伸隆さんは体から「8才まではこんなところで走り回らなあかん」と言われました。人の造った物から被害を受けた時、それに寄り添って生きることはできません。でも自然は違います。自然には寄り添わなければ私たちは生きていくことはできません。私たちの生きるための全てがあります。そこに背を向けても生活は成り立つかのように現代社会は錯覚してきましたね。子ども達が希望をもって生きていくために、自然との正常な関係を認識しなおさなければならないですね。「子ども達の成長にとって自然体験は有効です」を超えていかなければなりません。私たちがどう生きるか、どんな社会を目指しているのか、ひとりひとりに問われています。
卒園するおひさまさんたち、明日から2泊3日のお泊り保育に入ります。シカを捕まえて食べたい・・と夢の話をしていましたが、かけた罠に猪がかかりました。おひさまさんだけに連絡をして、仕留める現場を希望者の人達が集まって見ました。仕留める現場を見ることはもちろん、猪も初めて見られた方が多かったのではないでしょうか。先日はたまたま大きな木を切り倒すのにおひさまさんは立ち合いました。命が切り倒されていく瞬間です。猪も木も、そのような場面に講釈を加えず、そのまま子ども達が真摯に受け止めていく感覚を大切にしたいと思います。真摯でなければなりません。
幼児期にやりすぎ、という意見もあります。でも、千草ではありうることで、ここを逃してしまったら、もうチャンスはおそらくないでしょう。私たちが生きるためにこんなに多くの命をいただいているという事実を知ることは。そしてそれは楽なことではない、生の世界だということを。幼児期だからこそそのまんま受け止めることができると思います。幼児期だからこそ、自分ともそのまんま出会い、自分という感覚を抱くことができるはずです。
「希望」はすでに子ども達の中にあります。そこからぶれないで、外れないで生きて行ってもらいたいと思います。
卒園するおひさまさんを憧れの目で眺め、慕い、自分達だってと、伸びよう伸びようとしているおそらさん、もりさん、おはなさんたち。3月は数えるほどしかありません。楽しく心を込めて過ごしましょう。