マルチン・ルター序文、匿名のドイツ騎士修道会士著『ドイツ神学』(1516年)第二章より抜粋。
アダムは、リンゴを食べた故に、破滅しまた堕落した、と言われる。
私はこう言う。そうなったのは、神のものであるものを、アダムが思い上がって我がものにすることによってであり、そして彼の「私は」、彼の「私の」、彼の「私に」、彼の「私を」などによってである、と。
もし、アダムがリンゴを七個食べても、それを我がものとすることがなかったならば、彼は堕落しなかったことであろう。しかし、この我がものにすることが起こるやいなや、アダムは、リンゴをたとえ一個もかじっていなくとも、堕落したのである。
さてところで、私はアダムよりも百倍も深く堕落し、また、遠く背反したのである。そして、アダムの堕落と背反を、すべての人間は改めたり、あるいは、償ったりすることは出来なかった。
ところで、私の堕落は、いかにして改められ得るであろうか?
それは、アダムの堕落同様に、そして、アダムの堕落が改められたのと同じ御方によって、しかも、同じ方法で、改められなければならない。
この改めは誰によって、あるいは、いかなる方法で行なわれたのであろうか?
人間は神なしにはそれが出来なかったし、神は人間なしにはそれをしようとされなかった。それ故、神は人間の自然的本性ないし人間性をわが身に引き受けて人間化され、そして、人間は神化された。まさにそこで、改めがなされたのである。
このようにして、私の堕落も改められなければならない。私は神なくしてはそれが出来ず、神は私なくしてはそれをなさるべきではなく、また、それをなそうと思われない。というのは、そのことがなされるべきであるならば、神が、私の内にあるものすべてを内からも外からもわが身に引き受けられるように、そして、神に逆らう、または、神の業を妨げるものが、何一つ私の内になくなるように、神も私において人間化されなければならないからである。
神が、ありとあらゆる人間をわが身に引き受けられ、彼らにおいて人間化なされ、そして、彼ら人間が神において神化されても、それが私においてなされるのでなければ、私の堕落と背反は決して改められないであろう。それが実際また私においてもなされない限りは。
そしてこの償いと改めにおいては、私は何一つ付け加える力を持たず、そうする立場にもなく、あるいは、そうするべきではなく、神だけが行なわれ、また、働かれ、そして私は、神をそして神の働きと神の意志を受け容れるというように、単に純粋に受け容れるだけである。
そしてそれ故、私がそれを受け容れようとしないで、むしろ「私の」や「私は」や「私に」や「私を」を持ちたいと思うことが、神の働きを妨げ、そのため神は神だけで何の妨げもなく働かれるということが出来ない。そのためにまた、私の堕落と背反は改められないままである。見よ、これはすべて、私の「我がものにする」働きの仕事である。
出典:著者不詳、山内貞男訳『ドイツ神学』(ドイツ神秘主義叢書10)創文社、1993年、29-30ページ。
<黙想>
(1)「私は」「私の」「私に」「私を」という主張によって「私」を神の上に置き続ける私。
(2)アダムは、たった一個のリンゴを我がものとしたゆえに、堕落した。私は、いかに数え切れないほど多くの事柄を、我がものとしてしまっていることか!
(3)私が、私の堕落を、私で改めることは、絶対に不可能。それは、自分で自分の髪の毛を引っ張って、空中に浮かぼうとする試みである(C.S.ルイス『マラカンドラ』)
(4)神は、神性の上に人間性をお取りになって、主イエスキリストとなり、われら人類の堕落せる人間性を、改めてくださった。こうして人間の「神化」(テオーシス)が可能とせられた。(「神化」とは、神そのものではないが神から出た神の本性である「愛」に、人間が参与し、愛に化せられること、と見たパラミズムを参照せよ)
(5)主イエスキリストの「受肉」において、すでに全人類が神に結合せられており、主イエスキリストの「十字架と復活」によって、すでに全人類が救い取られている。それは、まったくただ、主イエスキリストが成し遂げられた「完了したみわざ」である。それに付け加えるべき、いかなるものも、ない。
(6)しかし、私が、信仰によって「それ」を求めないのであれば、求めない限りにおいて、「それ」は永久に私には適用されない。すなわち、主イエスキリストの「完了したみわざ」がもたらす恩恵を、頑として受け容れようとしない「私」が、神の働きを妨げ、神が私の内で全く何も出来ないようにしてしまう。こうして私が、私の内にあって、神から留保し続ける「私」こそが、地獄である。地獄の扉は内側から鍵がかかっている(C.S.ルイス『天国と地獄の離婚』)
(7)それゆえ、神は地上を見回し、「アーメン」と叫ぶ魂を見つけようと、探し求められる。「見よ、わたしは戸の外に立って叩いている。だれでも戸を開けるなら、わたしは入って、その人と食事を共にするであろう」(黙示録)