ある日、ダラムの主教に向かって救世軍人が言いました。
「救われてますか?」
主教は、いたずらっぼく答えました。
「そりゃ、きみの言う救いが、『ソーセイス』か『ソーゾメノス』か『セソースメノス』かによるね」
目を白黒させる救世軍人に、主教は続けました。
「キリストの十字架が成し遂げた救いを、自分のものとして受け取ったという意味での『ソーセイス』なら、わしは救われておる。
からみつく罪をかなぐり捨てつつ、永遠の都を目指して、聖化の途上を進んでいるという意味での『ソーゾメノス』なら、かくありたいものぢゃ。
世の終わりのラッパが鳴り響いて、救いの最終的完成に与かったという意味での『セソースメノス』なら、もちろん、まだぢゃよ!」
G.B.ケアード『支配と諸力─パウロ神学研究』より