
十字架は、一人一人のキリスト者が負わせられる。一人一人が経験しなければならないキリストと共に苦しむ苦しみは、先ず最初に、この世のいろいろな束縛から抜け出るように呼び求める招きである。それは、イエス・キリストと出会って古い人が死ぬことである。服従への歩みに足を踏み入れる者は、イエスの死に身をゆだねる。彼は、自分の生命を死に引き渡す。それは初めからそうである。十字架は、敬虔で幸福な生活の恐ろしい結末ではない。十字架からイエス・キリストとの交わりは始まるのである。イエスの招きはすべて死に通ずる。イエスに従うために、私たちが最初の弟子たちにならって家や職業を捨てなければならないにしても、あるいは、ルターにならって修道院から出てこの世の職業につくようにするにしても、いずれの場合にも私たちを待ちうけているのは、あの唯一の死、イエス・キリストにおける死、イエスの召しにおいて私たちの古い人間が死に絶える死である。
ディートリッヒ・ボンヘッファー
(ディートリッヒ・ボンヘッファー、森平太編『この人を見よ』新教出版社、1969年、p.164.)