十字架は、キリストの個人的勝利である。これにより、キリストは、天使的諸力の支配権を、足下に置くに至った。キリストは、その肉の体を脱ぎ捨てることにより、「もろもろの支配と権威の武装を解除し」(コロサイ2:15)、それらの諸力がキリストに対して用い得る唯一の武器を、取り上げてしまった。
しかし、十字架はまた、集団的勝利でもある。キリストが、罪深い人類と同一化して、へりくだったことにより、人類はキリストの義と勝利とに自らを同一化することが可能となった。
キリストは、最後のアダムとして、新しい人類の頭となり、キリストにある人類は、キリストによる身代わりの死と復活を通して、新しい生命へともたらされた。この新しい人類に対して、支配と権威は、もはや支配権を及ぼし得ない。「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません」(ローマ6:8-9)。
この世の支配者たちは、キリストをおのが手中に収めるどころか、かえって、全人類に対する支配権を失うはめになった。もしそうなるとわかっていたら、栄光の主キリストを十字架につけることは、しなかったであろう。
人が、この新しい人類に加わりたいと願うなら、ただ一つ条件がある。信仰である。この信仰とは、キリストと自分とが同一化されたという事実を、心の底から受け入れることである。人は、生まれながらにして、アダムに属する者である。しかし、キリストに属する者となるには、本人の同意がいる。
キリストにつける新しい集団としての人類は、実在の現実であり、それが経験上の事実となるのは、ただ信仰による。
ジョージ・ブラッドフォード・ケアード
ジョージ・B・ケアード『支配と諸力─パウロ神学研究』オックスフォード大学出版部、1956年、pp.92-93.
George Bradford Caird,
Principalities and Powers: A Study in Pauline Theology (The Chancellor’s Lectures for 1954 at Queen’s University, Kingston, Ontario), Oxford University Press, 1956 (Reprinted by Wipf and Stock Publishers, 2003), pp.92-93.