水曜日
聖書 ヨハネによる福音書13:21-32
黙想
もし、イエスが、起こることすべてを事前に知っておられたのだとしたら。もし、ユダが、単なる操り人形だったのであり、聖書に記された大きな計画に決められた通り、自分の役目を果たしたに過ぎないのだとしたら。そうだとしたら、恐ろしいことだが、わたしたちには、希望は無い、ということになろう。それはつまり、わたしたちは、プログラムされた通りに動く、コントロールされた存在ということになり、人間として成長できるような自由はない、ということを意味する。それはまた、わたしたちが、お互いに対していかなる影響も与え得ないことを意味する。だれかと親密になるか絶交するか、近づくか遠ざかるか、愛するか無関心になるか、わたしたちには、選ぶ自由はない、ということになる…。
二階座敷を出て、夜のしじまに歩み出られたイエスは、ユダのために心を痛めて、悲しみに沈まれた。その悲しみは、ほかの弟子たちが、窮地にあるユダに対して、無関心であることへの悲しみであった。弟子たちはまるで、イエスの愛の無力さを見て、凍りついてしまっていたかのようであった。イエスの愛をもってしても、ユダを仲間内にとどめておくことが出来ないとしたら、いったい、弟子たちにいかなる希望があるだろうか?
しかし、わたしが思うに、イエスのお心は別の考えであったに違いない。イエスは、ご自分に何度もこう問いかけられたのではないか。なぜ、だれも、何も言わなかったのか。あれほど愛されているヨハネでさえ、なぜ、何も言わなかったのか。なぜ、だれも、こう言わなかったのか、「ユダ、ぼくたちはみな、きみのことを愛しているよ。きみは、ぼくたちの仲間だ。きみは、どこへ行こうとしてるんだ? きみは、何をするつもりなんだ?」と。イエスの無力な愛が、その力を取り戻すためには、だれかの発言を必要としていたことに、なぜ、だれも気づかなかったのか? 人間が、本当の人間であり得るためには、ひとひとりの力では不可能であることを、なぜ、だれも気づかなかったのか?
ブライアン・ソーン
Brian Thorne
祈り
ああ、イエスさま。あなたの傷ついた御手を伸ばして、わたしたちに触れ、いやし、立たせてください。そして、わたしたちを、あなたのみもとに引き寄せ、また、お互いをお互いに、愛のうちに、引き寄せてください。アーメン。
イギリス聖公会オールハロウズ教会「受難週の瞑想」より
All Hallows Church, This is Holy Week