竹崎順子
徳富健次郎述
第一章
眼鏡橋
一
肥後、上益城(かみましき)郡、津森村、大字杉堂(すぎどう)は、熊本市の東方四里、阿蘇の外輪山脈(がいりんさんみゃく)の西南になだれ落つる裾山つづきの山ふところに潜む小さな部落であります。源を出でて遠からぬ清らかな水の杉堂川が村中を流れています。この川一里南西に流れて木山町のほとりでは木山川と呼ばれ、また一里南西に流れて沼山津(ぬやまづ)の里(さと)を過ぎ、加勢川となり、さらに一里流れて鯰(なまづ)の里を過ぎ、なお一里南西に流れて川尻町の付近で日向境の深山から出て来る緑川に合い、一里余を南に西に流れてついに有明(ありあけ)の海に入っています。
もし好事(こうず)の人あってこの杉堂の片山里(かたやまざと)を尋ね行くとすれば、熊本市を東南にはなれて道は名だたる水前寺公園を半周し、水前寺の水晶そのままの湧き水が川になったばかりというところで砂取橋を渡ります。橋下の水も南に流れて江津湖(えづこ)になり、さらに流れて加勢川に入るのです。熊本市は今白川を越えて東南に膨張しつつあるので、この砂取町の付近までは新開の雑沓がつづきますが、それらを後にして左手に八丁馬場の杉並木を見つつ道はようやく晴晴(はればれ)した田畑の中を走ります。山遠く、天(ひろ)く、浮き上がったような広原の朗らかな気持ちは何ともいえません。熊本市から約二里にして秋津村大字沼山津という里に来ます。よろづ窮屈な徳川時代に早くも世界の平和を真面目に考えたほどずばぬけた頭の横井小楠(しょうなん)が熊本から引き移って最後の十三年を住んだ村です。明治元年三月明治天皇のお召しによって、維新の大業をたすくべく六十歳の処士横井はこの村を出て京都に上(のぼ)り、参与になって一年足らず、明治二年の正月理不尽な刺客の刃に斃(たお)れ、南禅寺に葬られ、白髪まじりのその髪の毛はこの沼山津に送られて、そを埋めた塚は五十余年の風雨に黒みつつ、近頃あらたに建てられた横井小楠頌徳碑とともについ道側に小高く立っています。

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