三 (湯浦時代)
葦北郡湯浦郷は、熊本の南二十一里余、名に高い芦北の険阪(けんぱん)三太郎の一番南の津奈木(つなぎ)太郎の北麓(ほくろく)に西へ開いた小さな谷の一郷です。薩摩へ通う昔の街道は、佐敷の南一里余にしてこの郷を通っていました。温度は百度、炭酸性の小さな温泉が湧(わ)くので、湯浦の名があります。湯浦川が郷の中を流れ、海も近い、佐敷湾の南、松など生(は)えた盆石のような島々が碧潮(へきちょう)に浮んで、「年ふるや女島(めしま)の松の深緑(ふかみどり)、しづえは浦の波に浸(ひた)して」という歌の女島など近くにあります。今佐敷から津奈木太郎へと山の上を通う国道から西へ見下ろす谷に白光る川の一筋(ひとすじ)、それに沿うてむらがる人家から炊煙(すいえん)の縷縷(るる)とあがっているのが湯浦です。天保九年三月、積年の好成績により、矢島忠左衛門は抜擢(ばってき)せられてこの湯浦郷の御惣庄屋兼代官を命ぜられ、妻子を将(い)て木山からここに赴任(ふにん)したのであります。
細川氏の地方政治の仕組は、郡に郡代、郷に惣庄屋、村に庄屋を置いて、諸般の政務を掌(つかさど)らせたものです。郡代は熊本からやって来ましたが、惣庄屋は多く郷士からとりました。必しもその地方の郷士と限らず、都合でずい分遠方から呼んだりやったりしたもので、現に矢島忠左衛門のように益城郡の山村土着(どちゃく)の人で、二十幾里もはなれた海村にやられたものもあります。郷は二三万石から四五千石、村は二三千石から小さなのは数百石のものもありました。郷に長として配下の庄屋を総(す)べ治めるので、惣庄屋といい、一郷の民政を奉行(ぶぎょう)し郷士を管(かん)するので、また代官ともいいました。中央政府のいわゆる御郡代と村のいわゆる庄屋さんの間に立って、官民の橋渡しをする役で、身分は一領一疋、俸禄は大抵高知(たかち)二十石、口米十六石、功績によって加俸の沙汰もありました。いずれも相当の教養あって、一郷内の租税、法刑、教育、土木、一切を管理し、格式はとにかく、なかなか実勢力があったものです。税務署、警察署、その郷一切の民政署を兼ねた役宅は、会所と名づけられました。矢島忠左衛門の一家は、湯浦の会所に納まったのであります。

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