小楠碑畔を大道はまっすぐに木山町の方へと東北走していますが、しばらく南にきれ込んで沼山津の村中に今は主(ぬし)もかわっている昔の小楠居のあとを尋ね、そして漁好きの小楠が釣をしたり網をうったりした沼山津川の辺に出て、その堤を北東にぶらぶら歩くのも面白いでしょう。穏やかな流れに魚のかくれ家の藻がゆらぎ、南の堤は摘み草の子女を喜ばせます。南の堤外は一面の低い田んぼです。それはずうっと西へ末広にひろがって海にまで及んでいます。いわゆる緑川盆地で、肥後の重なる米倉ですが、いったん洪水となればただもうぼうぼうとした湖水になります。低地を限る山々の一番西が宇土半島、鎮西八郎為朝の強弓を今もその名に語る雁回山(がんかいざん)、その奥に五箇の庄の潜む下益城の山々、それから近くに握飯(むすび)のような円(まる)っこい頭をしたのが飯田山(いいださん)です。こんな景色を見かえり見かえり一里のぼると木山町に出ます。木山川を東南に帯び小山によった戸数五百余、人口二千三百ばかりの細長い田舎町です。「心苦しき月をこそ待て」という下の句に「人知れず肌(はだへ)に結ぶいはた帯」という上の句をつけて、岩田帯紹宅といわれ、歌名は都まで聞こえた天正年間の木山紹宅や、加藤清正と槍を合わせ、清正の十文字槍の片鎌をへし折ったという猛将木山弾正のよった城跡などがあります。
木山町から大津町へ行く大道と別れて、別路を東北へ進みます。大分狭くなった石ころ路は、それでも乗合自動車をがたくらせて、木山川の右岸を、川からはかなりはなれて、小さな流れに沿い、爪先あがりに東北へ、山へ、阿蘇へと走っています。川向こうの下陣、上陣、川よりこちらの寺中(てらなか)、田原(たばる、すべてもう津森村です。自動車がそれを南から北へと走るにつれて、路傍の小さな茶店の前についばんでいた鶏の群がクワックワッと驚いて避けます。白い手拭かぶりに赤襷(たすき)、紺の手甲脚絆(てっこうきゃはん)、きりっとしたなりの百姓娘が柄の短い肥後鍬(くわ)をついてちょっとの間見送ります。沼山津あたりで広々と見晴らされた田んぼも扇をたたむように本細りになって、飯田山ははるかの後になり、そのつづきの山々が近く寄ってき、そして
俵を伏せたようなあか禿(はげ)の山が行手斜(ななめ)に仰がれてきました。俵山です。それは阿蘇の外輪山の一つで、二重峠(ふたえのとうげ)は北、俵山は南、相対して阿蘇の西の関門を固めています。
木山町から小一里も来ると、谷はいよいよせまって、道は初めて木山川を左岸に渡ります。東北に折れてしばらく往ってまた一の橋を渡ります。河原村の方から来る河原川の流れです。ここの地名を荒瀬というて、沼山津木山あたりののんびりした野川は、ここへ来ると岩はしる水に声ある山川となりました。以前はここに眼鏡橋がありましたが、明治三十三年の洪水に流失して、今は木橋が架かっています。荒瀬の橋を渡るとすぐ道の左手に古城跡らしい小さな高台が仰がれます。
城が峰(じょうがみね)というて、頂は墓地です。昔はここに楠の大木がうっそうと茂っていましたが、それは樟脳(しょうのう)故に伐られて、墓地はあからさまなものになりました。
城が峰を過ぐると、一の小さな谷が左に見下ろされます。谷底を先刻渡った木山川の上流が流れ、底の礫(さざれ)も数えらるる色なき水に低い土橋がかかっています。水際(みぎわ)から山へかけ、川をはさんで茅葺(かやぶき)瓦葺(かわらぶき)の小さな群(むれ)が見えます。熊本県上益城郡津森村大字杉堂はここです。戸数百三十、人口五百余の純農村で、副業は製茶、養蚕、煙草耕作が年収一万円以上に達するということです。ハエ、アブラメ、川キス、鰻(うなぎ)、イダなどの住むこの川水を南西に下って木山へ一里、沼山津へ二里、鯰へ三里、熊本へは木山を経て四里。東北隣は阿蘇郡山西村になって、その村の字布田(ふた)へは山路一里、上益城郡の北隅に取り忘れられたような別天地、三等郵便局が大正十一年の暮にやっと開かれたような世間はなれた津森村でも、殊に奥まったのが杉堂です。水に富む谷、杉などよくそだつので、昔から杉堂の名はつけられたものと見えます。

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