この杉堂の住人に、今から百五十年も昔矢嶋弥平次吉保(やじまやへいじよしやす)という郷士(ごうし)がありました。宝暦十年の生まれです。宝暦といえば、紀州に麒麟(きりん)、肥後に鳳凰(ほうおう)と、紀州侯徳川治貞とともにその頃日本の二名君に歌われた肥後侯細川
重賢が中心となって肥後文化の黄金時代を封内に現出した時代で、五十四万石の領内は人心のびのび生き生きといろいろの芽が萌え花が咲いた時代でした。そのほとぼりの中に人となった杉堂の弥平次は、頭のよい、一癖(ひとくせ)ある男でありました。妻は隣村小谷(おやつ)の郷士富永弥平次右衛門の妹で、順良な女でした。夫妻の間に男の子三人、いずれも相当の教育を授(さず)け、中にも嗣子は熊本に出して数年にわたって文武の修業をさせたものです。
文政元年には弥平次も五十九、六十という齢を明年に控えて、嗣子は大きくなったし、隠居前のお礼参りに伊勢参宮を企てました。弥平次夫妻は村の講中(こうちゅう)幾人と、山桜咲く春杉堂を立ち、陸路(くがじ)は草鞋(わらじ)、海は帆(ほ)かけの乗合舟、ことなく伊勢参宮を果(はた)し、京大阪もゆるゆる見物して帰路につきました。また来べき旅でもないので、帰途も名所名所を見物し、日数経て周防(すおう)は岩国の錦帯橋(きんたいばし)またの名算盤橋(そろばんばし)に来ました。百二十五間の岩国川を四基の橋台を踏まえて飛龍の如くのたうつ眼鏡橋の連続を眺めた時、一行は嘆美の声をあげました。中に、先達
矢嶋弥平次は腕組みして橋を睨(にら)みつけていました。彼の頭には、郷里の川が閃(ひら)めいたのであります。そこの荒瀬の橋は、夏の出水ごとに流されて、往来の人の難儀は言うばかりもない、このような眼鏡橋をかけたらば、という一念が閃めいたのでありました。てきぱきした気象(きしょう)の弥平次はそのまま妻と岩国に逗留して、眼鏡橋の構造を研究しました。十日もするとすっかり要領を呑み込んで、弥平次夫妻は勇んで帰国の旅をつづけ、秋風とともに杉堂に帰って来ました。
弥平次は早速架橋にかかりました。誰に相談するともなく、誰の助力を求むるでもなく、全く
独力で私財を擲(なげう)ってこの工事にかかったのであります。工事は着々進行して、翌文政二年の夏には人間の勝利を誇(ほこ)り顔(がお)に見事な片眼鏡橋が
川幅十間に余る荒瀬の急流を跨(また)げました。もうどんな大水が出たところで流さるる憂(うれい)はありません。橋は丹(あか)く塗(ぬ)られて、くすんだ田舎に眼ざましい美観を添(そ)えました。界隈(かいわい)の歓喜(かんき)は言うばかりもありません。ことは熊本に聞こえて、藩侯は賞美の余弥平次を
一領(りょう)一疋(ぴき)に取立て、なお数々の賞賜がありました。一領一疋は甲(よろい)一領(いちりょう)、馬一疋の意で、即ち一人前の士であります。
当時下陣の柿迫(かきざこ)に朝来(ちょうらい)先生嵯峨(さが)直方(なおかた)という儒者が住んでいました。評判の眼鏡橋を見て弥平次に贈った詩があります。

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