それを目がけて第一の入門が葦北の御惣庄屋の嗣子徳富萬熊(後太多助、一敬)でありました。徳富の母は葦北郡津奈木の徳富家の女でした。徳富家から熊本の不破(ふは)という士の家に養子が行き、不破家から横井平四郎の兄時明の妻清子は来ました。そんな縁つづきから熊本の近藤塾に香(こう)の物菜(ものざい)で勉強していた萬熊は、若い伯父の徳永一瓢(ぴょう)とともに不破家や横井家に味噌汁の馳走になりに往ったものです。三十歳の横井平四郎が時習館の居寮長になって三人扶持(ふち)を賜るようになったその夜、横井兄弟のしんみりした寝物語を、叔父と玄関に寝ながら聞いていたのが十七歳の徳富萬熊でありました。横井が江戸遊学、酒失帰国、六畳蟄居(ちっきょ)という段取(だんどり)を経て自家の新天地に跳(おど)り出た時、二十歳を越して何時まで唯の書読(ほんよみ)でいることかとやきもきしていた徳富は光明(あかり)さすそなたに馳せ参じたのでありました。貧乏士族の部屋住みの先生は、最初から塾など開く力はもとよりありません。破れ畳が唯一の書斎で、住居で、教場です。薫陶(くんとう)を受くるに熱心な最初の弟子は、三畳の下男部屋に下男と同居さしてもらって、悦んだものです。
第二の入門は、中山の御惣庄屋の嗣子矢嶋源助でありました。湯浦時代に親と親とが別懇(べっこん)にしたので、嗣子と嗣子とはもとより識(し)り合っていました。萬熊と源助は同年で、ともに熊本の近藤塾にいました。彼が牽(ひ)かれた横井には、これも牽かれずにはいません。水道町の破れ畳の六畳には、謹厚な徳富と鋭敏な矢嶋と膝を並べて教を受けるようになりました。
おいおい城下子弟の入門もあって、横井平四郎の周囲は次第に賑やかになって行きます。
感懐 小楠
心官只是思 思則真理生
或在一身上 又入る天下平
古今天地事 莫不関吾情
寂然一室中 意象極分別

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