仕事を通じて感じること、テレビのこと、大阪のこと。
2009/9/15
昨夜のNHKニュースで。
自民党・谷垣氏が総裁選に出馬すると。
そこで街の声を聞く・・・という下りで、
「立候補表明した谷垣氏・・・」
「立候補を表明した谷垣氏・・・」ではいかんのかいな。
なんでもかんでもワンワードという流れはどういうことなんやろう?
と思うわけであります。
ワンワード化することで、「表明」に意味がおかれ、
「立候補」は軽い扱いとなります。
つまり報道としては「表明」したことに重きを置いている、実は・・・
という意識の表れなのか?
スタジオではもちろん、立候補した理由について訊く。
本来は、そちらがメインのはず。
しかし、「表明」・・・つまり、表層的に起っている事象に
メディアが、いや、社会全体が最も興味を持っている、
ということの表れかもしれません。
酒井法子の報道についてもそう・・・・
☆今、「酒井法子報道」て打ちかけましたがな^^;
まさにテレビの影響を受けまくっている自分に気付く^^;
ただ、「酒井法子」と呼び捨てにすることに若干の抵抗がある。
しかし「酒井法子さん」とも言い難い。
ならば「酒井法子報道」が落ち着く・・・ということはある。
社会に蔓延する覚醒剤問題よりも、
「酒井法子」という事象ばかりが報道されているように感じます。
☆下手すると、「社会蔓延する覚醒剤問題」なんて言い方も
出てくるかもしれん。
私なりの考えでは、「使い分ける」ことが必要・・・・
原稿の書き手が、読み手が「立候補を表明」と選択するのか、
「立候補表明」と選択するのか。
「を」入れることで、何を表現したいのか、
「を」入れないことで、どう伝えたいのか。
こういったことを考えなければいかんと思います。
さて、ワンワード化について。
おそらくは、情報が氾濫し、情報の処理も効率化したい、
ということを意味しているように思います。
「情報氾濫による情報処理の効率化」
なんて文章、どこかのVPにありそうですが、
限られた尺の中で、より多くの情報を詰め込みたい、
というクライアントの欲求とか、メディアの欲求とか。
漢字というのは、それだけでたっぷりの情報量を持っています。
それらが、ただ造語として連なっていくことで、
僕は「情報洪水」の中に生きているように感じてます。
そして言葉を扱うものとして、
せめてできることは・・・と思います。
助詞を省かないことで生まれる「言葉の意味・力」があると
僕は考えています。
伝えたいなら、助詞を使え!
と思うなあ。

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2009/9/4
デビューというほどのもんではおませんで。
仲間4人と「発表会」を日曜日にやります。
私の一席は「阿弥陀池」。
他人に聞いた「落ち話」を、人真似で語ろうとするが
どうもうまくいかない、そこかしこに小ボケの入った、
「お笑い」の勉強にもなるお話しです。
今日、金曜日現在、だいたい8割くらいの仕上がりか、
というとこでございます。
ええ、私の「落語」。
本番は、なんとかトチらないように、
1、2箇所くらいは笑いが起るように出来れば・・・^^;
それにしても、落語はようでけてます。
およそ20分ほどの話になりそうですが、
起承転結がしっかりしてるというか、フリがありオチがある、
ま、当たり前なんですけれど。
A4サイズに、10.5Pの文字の大きさで8ページ。
「覚えられるんかいな」と思ってましたが、
まあなんとかいけそうです。
人間国宝・桂 米朝師匠の「阿弥陀池」をさせて頂くわけですが、
師匠のようにはできませんし、師匠の言い回しやと覚え難い箇所もある。
やはり「自分の言葉」にしないと上手くできない、
それはつまり「自分のもの」にどこまでできるか、
ということでしょう。
もちろん、「自分の言葉」にしていくわけですから、
落語の基本もない私、それは「落語」から逸脱していくことに
なるやもしれません。
それでも、なんとか落語の面白さを伝えたいし、
その醍醐味を味わいたいと思っています。
落語家になるわけではありませんので、
いろんな粗はご了承いただきたいが、
ナレーション、朗読をするにしても、
やはり「自分のもの」にせねばなりません、
そういう意味では共通してます。
これまで培ってきたものを活かしながら、
「落語」ならぬ「落語語り」てなものをお見せできるやも?
なにはともあれ、恥をかくを覚悟で頑張りまっさ^0^

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2009/7/22
先日、大阪の大御所構成作家の方に会いました。
疋田哲夫さんという方で、
大阪のテレビで活躍されてきた方です。
「大阪の語り芸が引き継がれていない」
彼はそう言いました。
「そうですね」と僕は頷きました。
昨年来から考えていたこと・・・語り芸。
彼は私に、マルセ太郎さんの本と、
自身作で、上岡龍太郎さんが演じた語り舞台用の台本を
渡しました。
?
少し面食らった。
考えてはいたものの、
「語り芸」というものの近くにいるわけでもない。
ナレーションはある種「芸」とは言えるかもしれないが、
「芸」とはやはり舞台で鍛えられるもの、
という認識です。
ライブをやり出したからと言って、
それが即、「芸」となるほど「芸」は優しいものでもない。
しかし、何かのタイミングかもしれない、
そう思いなおしました。
「お借りします」と台本3本と本を借りて帰りました。
書き写そうと思ってます。
「これが上岡龍太郎が読んだ台本か」と感慨。
ナレーションと語り芸、
何かが繋がっていきそうです。

2
2009/6/30
ライブから上がってくるナレーター、語り手がいていい。
ストリートからのし上がってくるやつがいていい。
オリジナルを自ら語るプロの語り手が出てきていい。
語りCDが売れたり、DLで目だっていい。
詩人が朗誦するのではなく、
プロの語り手が詩を発表していい。
その声で、その語り口で、そしてその文章で描ける世界がある。
声は武器である。
語り口は武器である。
しかし、テレビの中だけでやっていても、
それは所詮それだけのものだと思う。
ライブの叩き上げが出てきていい。
叩き上げていきたいと思う。

5
2009/6/24
先日21日(日)、
「ナレーターライブ・噛んだら終了!」。
盛況のうちに無事終りました。
ご来場頂いた皆さん、本当にありがとう!
その時の模様は、出来るだけ早く、YOU Tubeにアップしたいと
思っています。
1回戦、2回戦、そして決勝という流れで進んだライブ。
残念ながら私、優勝は出来ませんでしたが、
決勝の舞台に立つことができ、またやりきることもでき、
悔しいながらも満足しております。
これまで「ナレーター」というのは、ブースの中の仕事で、
人前で、それもステージに立ってナレーションをする、
それも対戦形式なんて、なかったことです。
自分の語り以外にも、
イベントとしての成功に満足し、
ここに「朗読エンタテイメント」をやったと自負し、
ナレーション、或いは朗読というものを
もっと魅力的なものにしていけるではないか、
と確信したのでありました。
「朗読エンタなんてどうよ?」と思うプロもいるでしょう。
それは当然のこと。人それぞれ考えがあります。
ただ、大阪の状況を考えれば、
これまでのやり方でいいわけがない。
これまでのやり方で、その貯金でいける人達はまだしも、
若い人達には、鍛える場があるとはいえない。
かつては仕事の現場が鍛えてくれ場でしたが、
そんなものはどこかにいってしまったし、
制作側に余裕もない。
ならば自らが、ナレーター自身が「場」を創っていくしかありません。
その「場」が、これまた「これまで通り」の、
シンプルな朗読ライブだけでは未来もクソもないでしょう。
ええ、「シンプルな朗読ライブ」を否定しているのではありません。
「それだけでは」です。
「それに加えて」です。
大阪には素晴しい人材がいる。
大阪には、当然ながら東京に負けないナレーターがいる。
ただ「場」が少なすぎる。
「場」にはエネルギーが充満し、
「場」が刺激に溢れる。
「観客が集まる場」には、ブースの中では鍛えようもない
「気」をもらうことができる。
テクニックで、商業ナレーションで
いったい何が伝わるというのでしょう?
生業としての「媒体ナレーション」は確かに有難い。
テレビ番組で、CMで飯が食えるのは本当に有難い。
そのためのスキルを懸命に習得もしてきました。
東京で売れればシンジラレナイ収入にもなる。
しかしそれがメインではないはず。
収入の高さが人生の主たる目的でこの世界にきたのではない。
もちろん、それなりの収入、いい暮らしを目指せばいいし、
目指すべきだとも思うし望みもするけれど。
それでも、「何のために?」と問えば、
仕事のためだけではないだろう。
仕事が人生の大半をしめるにしても、
何故、「語り」を職業として選んだのか。
「語り」とは「伝える」ことであります。
それはコミュニケーションであります。
それは実は「自分を知ってもらう」ためであります。
それは「相手を知る」ことと相互関係であります。
自分を知って欲しい!とう欲求の強さが何かを分けるとも思います。
少なくともクリエイティブの仕事をしている者は、
普通の職業に就いているものより何かに拘っているでしょう。
それはおそらく「自分」というものに拘っていのだと
僕は考えています。
目の前の状況、目の前の仕事にだけ捉われてはいけない。
その向こう、もっと向こうの自分をイメージしてみる。
そうすれば、今何をしたいか、すべきなのか、
エネルギーのようなものが湧いてくる、そう思います。
その言葉を、私はどうして「そのように」語ったのだろうか?
言葉を音にすることがボクラの仕事ではありません。
僕がやりたいことではない。
あなたがやりたいこともでもないだろう。
何故ライブをするのか?
そこに知らなかった世界があるからでしょう。
その世界とは、実は「自分の中にある世界」でしょう。
「自分探しの旅」は、まさに旅に出ずとも、
日常の営みの延長線上にあるのだと思います。
仕事の延長、ちょっとした勇気、
ほんの一歩wぽ踏み出す。
それがやがては「自分の中にある世界」を教えてくれる。
そして「自分の中の世界」は外の世界と繋がっている。
「伝える」とは、内と外を行き来させることならば。
だから!
少なくとも僕は、この仕事を選んだ、
いや行き着いたのだと思います。

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