パーマネント・プレス bR 1992年11月3日発行
「統合」へ向かう無意識 A
石川為丸
吉田文憲は、「大衆感情に依りかかりながら、きわめて隠微なかたちでだがほとんど臆面もなく大文字の正義をふりかざしている」などと、いっちょまえに詩のマガジン「鳩よ!」編集部の意図に欺瞞を感じたと言いながらも、〈油にまみれたペルシャ湾のウミウの写真〉に応じて、すなわち欺瞞を受け入れて、湾岸戦争詩を書いてしまった理由を、「商業詩誌の十倍の原稿料をもらえるから」(金が欲しかった)なぞと臆面もなく告白している(「湾岸戦争詩をめぐることなど」現代詩手帖7月号・九一年)。大衆感情に寄掛かりながら極めて隠微なかたちで成立した吉田文憲の戦争詩が、彼がこれまでに書きまくってきたふやけた詩の延長上にあることを明らかにしていく前に、少し遠回りして、この論争(?)の言わば火付け役となった瀬尾育生の、この間にはっきりしてきた「転回」について指摘しておきたい。瀬尾は吉本隆明との対談(現代詩手帖3月号・九二年)で、「湾岸戦争もソ連東欧問題も自分にとってぜんぜん切実じゃないとか、この問題にはぜんぜん関心がないということ、自分の中のそういう部分をちゃんと言えなければいけなかった。」と反省している。だがそれは最初の発言である、「かつてないタイプの戦争を前にして、それに拮抗し得るまでに自らの詩の言葉の質を鍛えようとしているのか。それともこの戦争をめぐってこの国に飛びかっている苛立たしい言説どものなかに、詩にだけ可能な鮮烈な亀裂を走らせようとしているのだろうか。そのどちらとも思えない。」という湾岸戦争詩を書いた連中に対する激しい口調での告発とは大いに矛盾している。だいたいからして切実に感じていなかった者にこういう積極的な発言ができるのだろうか。そうまで言ったからには、「瀬尾先生の新作にそういったことの痕跡がみとめられたら、おれはもう本気で“先生”と呼んでもいいんだけどな。(「情況への発言」・取扱注意十九号)」と言った若井信栄ならずとも、瀬尾先生ご自身の新作に期待してしかるべきであっただろう。だから今更「実は切実じゃなかった」はないでしょうよっての。ホント、瀬尾先生って軽いんだから。先の吉本との対談での「明るく元気で軽くて朗らかで」ということに関して、谷内修三が、「瀬尾もそうした軽さ指向の自立派の立場から発言しているように見えるが、“軽さ”のために、どんな思想的決着をつけたのか教えてもらいたいと(吉本は)問いかけているのではないか。(「嗚呼」1号)」と指摘している。これはなかなか興味深い。瀬尾の「転回」に彼も気付いたということだ。だが、思想的決着なんてものは瀬尾にはつけようがないはずのものなのさ。ほいほいご都合主義で変わっていくことをよしとするスタイルなんだからさ。このことについては、わしはすでに瀬尾の詩「中世」より引用して、遠慮がちではあるが批判している。
〈変形した世界のなかで、意志をもたないあまりにも受身的な「虫」にまで「わたし」を解体させている。いわば絶対的無責任の状態。「自ら変形し、この変形の中に世界の変形をうけとめること」(「トウキョウ、不可知の雲」)という彼の選びとった方法はわからないこともないが、もう少し積極的な路線に向かえば、やたらこの資本主義のスピードに同調していこうとするいわば敗北主義をもうちにふくんでいるようだ。(「主体の死もしくは現代詩の後退線」・取扱注意十六号)〉
こういう思いは最近の瀬尾の発言を検討していくとますます強くなるばかりである。例えば「樹が陣営」(9号・九二年五月)でのインタビューに答えて瀬尾は彼の学生時代をふりかえって、「ぼくにかんしていえばベトナム戦争は切実じゃないと思っていたし、反安保も切実じゃないと思っていた。だけれども自分にとって切実な問題や切実な衝動はあきらかに存在しているわけで、大学闘争という形をとったばあいにはそれがわりと偽(ママ)瞞なく包括できる。それが社会的にどんなつまらない問題であってもそれなりに切実なんですよ。」とすなおに語っている。しかし、聞いてみたいのは、「帝大解体」まで行きついたところのその「大学闘争」が切実だったという瀬尾が、どうして今頃、解体するつもりだったはずの大学のセンセイなんかにちゃっかりおさまっているのですかということさ。彼の言うその「切実な大学闘争」といったものが、民青がやったような「便所にトイレットペーパーをつけよ」といった「切実さ」だったのならわかるんだけどね。
瀬尾育生は、世界は必然性に支配されているもので、にんげんの選択するものではないと考え、虫のようにあるがままの現在に身をまかせていくしかないという諦念にとらえられている。「闘争」よりも「現在」のスピードに同調し、「現在」を追認する方を選んだからには、浮上している表層の現在詩についてもそのまま肯定していくことになる。そのいい例として瀬尾は稲川方人の詩集「2000光年のコノテーション」なんかを最高に評価している。だが、その評価の基軸はいかにもあやしい。瀬尾による稲川詩の持ち上げ方は無理があるのでじつに笑えるものになっている。こんなふうに。〈あそこ(稲川詩集「2000光年のコノテーション」)では詩の言葉が「死」というものを媒介にして、ぜんぶ死者の言葉になっているというのが決定的なポイントですね。〉だとよ。おいおい、おめえ本気か?とまたしても聞いてみたくなるよね。たいした決定的なポイントだよ。「ぜんぶ死者の言葉になってる」だなんて、四十づらぶらさげたおっさんのオカルト趣味! どうにもいただけない。意味不明の出まかせの詩を持ち上げる場合の苦労はよくわかるけど、もうちょい工夫がほしいところだ。もっとがんばりましょう。
詩は君の内部にうがたれた
半月型の穴だ
君の内部のくずだ
野菜のような
巨きな都市
………:(「2000光年のコノテーション」より)
“戦後詩の優秀な継承者で「戦略的」詩人である稲川方人の詩集「2000光年のコノテーション”なぞと、無内容な持ち上げ方をしている成田昭男の、この詩に付している解説(「樹が陣営」9)もまた大いに笑える。これ。「喩の多用によって自己と世界の回復をこれでもかあ、これでもかあとはかっていることである。」だってさ。なんとも具体性の乏しい、単純なほめことばだよね。しかも残念なことにそれもはずれているんだな。だいたいからして喩の多用なんかによってつながりの回復をはかれる如き自己と世界っていったい何なのよ。しあわせな発想だなあ。
成田は稲川詩集「2000光年のコノテーション」を、詩の俗世間によって作られた評判に惑わされて、まじめに読み解こうとすればするほど意味不明の迷路に入り込んでいくことになる。「つぎの野菜の直喩がどうしてもわからない」とか「半月の型の象徴するものが“半分の"という意味なのか、ある国家なのかわたしにはわからないが、欠けた、変形したというところにこの語句の価値があるとすることで一応の了解とする」とか、苦労して誠実に読み解こうとすればするほどわからなくなっちゃうところが気の毒でもあり、また笑えるところでもある。
稲川の喩はもともと出まかせなのだから、まじめに対応しようとしたのが失敗の元だったのさ。稲川の詩は成田の片思いとは逆に、出鱈目な喩の多用によって、自己と世界とのつながりを、これでもかあ、これでもかあと手放したところに成り立っているのさ。彼は自己も世界も詩の上ではとっくにあきらめているのだ。稲川の詩における喩は、だから何らかの意味でも現実の世界の事物と対応関係を持っていない。言葉はそれ自体として氾濫することもない閉じられた世界なのだ。意味を構成しえない弛緩しきった詩の世界があるだけだ。「湾岸で虫のように殺されてゆく人々とまったく同じようにわれわれもまた虫だ」と発言し、世界は摂理に従っているのでそのまま虫のようにまかせるだけと考えている瀬尾なんかが稲川の詩にひかれるのは、まさにこの点なのである。それこそ、「言葉の死後の生みたいなものをちゃんと使ってみせるっていう」(「樹が陣営」9のインタビューでの瀬尾発言)、つまり空疎になっている言葉を空疎なままに構成しえている点。成田らにとっての稲川詩のわからなさは、稲川には他者に解されない固有の思い込みがあるからということではなく、最初から何にもないからなのだ。他の表層の現在詩と比べてみるとはっきりする。
この町角の割れめのサツクスはにせものだ
おれの怒りはキラキラ飛び散った
おれの首にまたがる馬蹄形の輝く女
(「ソドム」天沢退二郎)
出鱈目であることに変わりはないが、ここではただ、意味を構成しないスタンザを、緊張でつらねてゆくことだけにかけられている。詩人の世界にたいするある思い込みは伝わってくるだろう。これが六〇年代の詩の表層の水準であろう。七〇年代は、佐々木幹郎の「水中火災」や瀬尾の「水銀灯群落」などを比較すればわかる。人の詩や文章の気のきいたところをつなぎ合わせても詩はできるようになったのだ。方法こそ違うがそれと同じ水準の詩。
……一条の気配の稲/妻が木質をつたって降りてくる。野のむこうからは拳/ ほどの人魂が、ゆるゆると力ーヴを描いて炎えてくる。打撃せよ。打撃するも のが不足していく。打撃せよ。
(「胡桃の戦意のために」平出隆)
吉本隆明が指摘している通り、これは、グランドで野球をしていてバットで力ーヴを打つという作文を、語の置き換えをして、詩にしてみたというだけのものだ。だが空疎であるということは同じだが、稲川の詩には一切のそういう対応するようなつながりがない、出鱈目そのものというところが違う。
稲川が湾岸戦争詩をめぐる論争全体が抑圧として機能したというのは、笑えるけどそれなりに納得はいく。たいした抑圧だけどね。稲川の詩が世界と対応していないから、湾岸戦争をめぐる論争(?)全体にも対応しきれないのでゆううつになっちゃったということでしょう。それにしてもよく分からないのは、なぜ今頃になって瀬尾育生が、「だれもが湾岸戦争が重要だと思わされた。それはいわば世界観ですよね。それに対して詩が場所をもちうるとしたら、まったくそれは切実でないという存在の場所を主張できなければならなかったんだけれども、ぼくもふくめてそれをはっきり言えなかったということがあるんです。」(「樹が陣営9」インタビュー)なぞといった反省を強調しなければならなかったのかということだ。ひどい脅迫観念にとらわれているのか、全く瀬尾の現実認識はなってない。瀬尾にとっては湾岸戦争よりかは、例えばけっこうかわいい女学生にどうやって声をかけようかといった問題の方が重要であるかもしれない。でもね、実際に湾岸戦争が重要だと考えて戦争詩を書いた詩人はほとんどいなかったということをまず認識しておいてもらいたいね。商業的な詩のマガジン「鳩よ!」に依頼されて湾岸戦争詩を書いた表層の現在詩人以外には、戦争詩を書いた者はほとんどいなかったということも認識しておいてもらいたい。「ほとんど」と言ったのは、自分で金を出している同人誌に書いた藤井貞和が例外としてたった一人だけいたからさ。吉田文憲をはじめとする「鳩よ!」に戦争詩を書いた連中にしても別に重要だと思わされたとか切実に感じていたからとかではなく、依頼されたから気楽にほいほいやってのけたにすぎなかったのだろう。「明るく元気で軽くて朗らか」だったのは実はこの連中だったのさ。「反戦」も売れるということ。彼らが反PKOデモをやったとかいうことはないにちがいない。みごとに転倒している詩の俗世間。わしが問いたかったのは詩人である以前の一個の人間の現実の方なのだ。詩は、そのあとに、やってくる。
(続く)