「パーマネント・プレス 26 1998年9月発行」
文学
パーマネント・プレス 26 1998年9月発行
記事内容
連載C瀬尾育生論「逃走する虫」補遺■石川為丸「抜け殻」
を生産するだけの 低迷する現在詩
論稿■八重田和久「日本詩の原点――伊東静雄詩集「春の
いそぎ」考
詩■井元霧彦「人間の学校 その五十二」
福原恒有「むかしのオコメはどこ」「空腹」
連載C 瀬尾育生論「逃走する虫」補遺
「抜け殻」を生産するだけの 低迷する現在詩 (下)
石川為丸
理由からの逃走
ここには、他人の「重い体験」を笑うことによって自分だけは軽くなろうとする、その時代のシニシズムに染まった精神が滲んでいる。かつて、彼が「大学闘争」の過程で受けとめたはずの問題を、当時の状況の中で自らに引き受け、そのときの課題を実現するための思想的根拠と実践的方向を打ち出そうとするような硬派の態度は、彼に取りようがなかったようだ。結局、瀬尾にとっての八○年代=「菊屋」への関わりは、自分では、「反マルクス主義」だったとか言っているのだけれども、むしろ「理由」からの逃走=「らん・らん・らん」であったとでも言ったほうが正確であろう。〈「菊屋」にとっていちばん重要なのは、“無意味”だったということ〉と彼は述べている。〈そういう(反核運動等の)マルクス主義末期の時代の「意味の中心」に対して「無意味を行使した」と考えればあの雑誌の存在を言いあてたことになるんじゃないかと思うんです(緊急討議「詩の心をとどめる場所」より)ということである。そして彼は、吉本隆明が八〇年代に入ってからサブカルチャーに対して肯定的になったことから、「高度消費社会、高度資本主義をはっきり肯定するというのは、あきらかにマルクス主義の批判原理に対する否定ということに重点があったわけです。」(「詩の人格、詩の理由」より)というようなことを読み取るまでになっていった。こういう「敵の敵は味方」の論理からは、瀬尾がその時代の中でどういうところに一番切実な問題とぶつかって生きていたのかということが、伝わってこないのだ。むしろ、こちらの方が、文学にとってはより本質的なことがらであるはずなのに。
もとより、「マルクス主義」そのものが文学にとって「主要なモチーフ」なんかになり得ないのと同様に、「反マルクス主義」というものもまた、文学の主要なモチーフにはなり得ない。まして、「無意味の行使」なんてものは文字通り、文学にとっては無意味の行使にすぎなかったのだ。マルクス主義の運動であろうとなかろうと、人がそういうものにかぶれてしまい、どこかで、間違ったり、道を踏み外したりしたときに、生の深淵が見えたりすることばあるに違いない。そういう時にこそ、実は文学が大きな理由を持つのだ。瀬尾に引き寄せていうならば、それこそが彼の「魂の中心地」だったはずだ。今となってはもうどうしようもないことなのだが、「美しい卑怯者の花火に濡れている」(七〇年代における彼の詩「魂の中心地」最終行)という表現が出てくるような場所へまで彼は降りていけばよかったのだ。
「だけど裏切るとはなんだろう。裏切るとは隊列を離れること。裏切るととは隊列を離れて、未知へと進むことである。」(ミラン・クンデラ『存在の耐えられない軽さ』より) 問題は一貫して自由になることなんかじゃなくて、出口を見つけることだったのさ。マルクス主義に対してどのように自由になるかということではなく、マルクス主義が見いだせなかった場所でどのように一つの道を見いだすかということだったのだ。ところが、残念なことに瀬尾はそうはしなかった。「無意味」でもって対応してきただけである。彼は、七〇年代とそれ以降、ひたすら抜け殻作りに専念していった。それは甲高い笑い声の狭間で苦々しくひそひそ声で交わされる腐敗のようなものだった。「湾岸で虫のように殺されてゆく人々とまったく同じようにわれわれもまた虫だ(九一年湾岸戦争詩に触れての彼の発言)」という瀬尾の自由。それは摂理の暴力に対しては、「虫」になることだった。頭を下げて、官僚とか検事とか教師とかになることではなく、「虫」という下人間的なものに逃走することだった。それが彼の自由だ。だがその虫は、巣穴の中にとどまっているだけで、その場を動くことをしない。それは、死んだ逃走の線でしかないから、けっして出口ヘは向かわない。巣穴から出ようとはしないし、象牙の塔からも出ようとはしない。けっして境界線を越えることはないのだ。
虫を扱う彼の詩において、彼は確かに逃走の線を描こうとした。だが、その「虫」には一切隠喩的なものはなく、象徴表現もアリゴリーもないのだ。彼の言いたいことは「隠れている」のであるとか、他の異質なモノに言い換えられているという詩の構造ではない。あらかじめ言いたいこと(彼によって隠されていること)などないのであり、企図されていることは、あたかも何かを語っているかのように語ることだけであった。「現在詩」にありがちな、シニフィエとシニフィアンの間にある異質性や、さらにはその他様々な差異から構築される多様な意味が織りなす戯れの偶然効果による「何か異質なモノ」の現出をもくろむというようなことでもなく、瀬尾は「詩」そのものを離散させているのだ。詩集「DEEP PURPE」以降の瀬尾の詩の特徴はこういうことだ。寓意ではなく、「寓意もどき」によって、「詩」を抜け殼にすることだった。ただ抜け殻を提示するだけで、別の意味などはもともと配慮されていないのだ。マルクス主義に対して、「無意味」を行使したごとくに。
受身の「安住」
瀬尾の最近作(現代詩手帖8月号掲載の『モルシュ』)を読んでみる。
〈敵意はいつも少し遅れて口にされる。わたしたちの通り過ぎてきた/羽の時間が、中空の柵で展翅される。指先についた鱗粉を漆喰の壁/面で拭って、だれもが、心がふいに浅くなった、と感じている。//わたしたちは吹き寄せられる。わたしたち/は砕かれる。わたしたち/は粉を散らす。葉叢がわずかな風に揺れて、わたしたちの消滅を祝/っている。わたしたちは物と物との隙間にはいり、病気をいっそう/重くするその冷気を、むしろ心地よいものに思っている。〉
ここでは、もう人間として世界を引っ掻くこともない、どこまでも受身のまま外界に同調する虫の「安住」が読み取れるだけだ。それは、徹底して、現実を回避したいという心性の表現だ。ついでに、この詩の前に載っている同世代である吉田文憲の詩(『わたしが倒れたところ』)を読んでみる。
〈すでに/すでにわたしは/人でないものになって、その声は達子森の雨や風の音に変わってゆく。/丘の十字を過ぎて、/わたしが倒れたところ/闇にみすてられて/はりつめた薄明の/空の蒼さを踏んで/まぶしいひかりのなかに脱けでてきた〉
ここでも、「人でないもの」すなわち、幽霊なんかになって世界をさまよっているかなしい姿が見える。これもまた、彼が生き暮らしている眼前の現実を回避したい退行的な安住の言語世界なのだ。
結局、九〇年代末の今になっても、齢五十にもなろうとする男達によるこのような抜け殻の詩だけしか浮上し得なかったということは、いったいどういうことを意味しているのだろう。それは、七〇年代の政治的な敗北の状況は、一見、詩の勝利のように見えたかもしれないが、実は詩の敗北であったということなのだ。毒がなければ解毒剤も意味をなさない。小さな声も、そこに大きな声がないならば、いやらしいヒソヒソ話にしかならないのだ。
こうした抜け殻の生産を続けていたのでは、あまりにも才能と労力の無駄遣いである。デージもったいないことだ。だからよ。瀬尾先生たちには、彼も言及しているベンヤミンの「ティーアガルテン」冒頭の文章で指摘された「都市の中で道に迷う」術を、ぜひ、もう一度思い起こしてほしいと思う。一度覚えてしまった歩き方を、今度は違ったふうに歩き初め、もっと道に迷った方がいいのだ。
七〇年代の不透明な海の底には、死んだ珊瑚がたくさん沈んでいた。投げ捨てたもの、無視したもの、踏み躙ったものを拾い集める「歴史の屑拾い」として、国家とも社会的な地位や財産とも関係のない、「書く」という見栄えのしない行為の領域の方に、自覚的に外れていくことだ。