「パーマネント・プレス 26 1998年9月発行」
文学
パーマネント・プレス 26 1998年9月発行
記事内容
連載C瀬尾育生論「逃走する虫」補遺■石川為丸「抜け殻」
を生産するだけの 低迷する現在詩
論稿■八重田和久「日本詩の原点――伊東静雄詩集「春の
いそぎ」考
詩■井元霧彦「人間の学校 その五十二」
福原恒有「むかしのオコメはどこ」「空腹
連載C 瀬尾育生論
「逃走する虫」●補遺「
抜け殻」を生産するだけの低迷する現在詩 (上) 石川為丸
現代詩手帖7月号の北川透と瀬尾育生の対談「詩の心をとどめる場所」は「緊急討議」と題されていたので、大いに興味をひかれた。だが、その討議の「緊急性」というのは、これを読んだ限りでは、ただ、彼らが3月号で批判した相手の守中高明から反論があったので、それにひとまず答えておきましょうという程度のものでしかなかったようだ。結局、彼らのやり取りの内容は「だがぼくはそんなことは一度も言っていません……。つまり守中さんは、そういうところでずいぶん『無理な姿勢』を取っているわけです」(瀬尾育生)とか、「この対談の性格を一言で表現するなら、そこに読まれるのは要するに、問題の歪形と無理解ないし無視に貫かれたデマゴギーである」(守中高明)などと、お互いに、誤解だ、曲解だなどと言い合っていることが示すように、互いに発言内容を受けとめあっていないので、生産的に発展していきそうもないようなしろものでしかなかった。だが、ここでの瀬尾先生の発言には、反面教師としてではあるにせよ、わしらにとって参考になるところが大いにあったので、これについて批判的に検討していきたい。
主観的なモチーフ
まず現代詩手帖2月号の「詩の人格、詩の理由」という鼎談で、瀬尾は、詩をめぐる状況の中で「八○年代のいちばん重要なモチーフは、マルクス主義の解体だったと思う。マルクス主義の影響やパターンをどれだけ解体できるかというのがそのときのいちばんのモチーフだったと思うんです」と述べている。彼は、詩というものはしょせんマイナーなジャンルのものだから、詩が後退局面にあるときに最初に現れてくるパターンは、決まって、メジャーな共同体に対してマイナーな共同体が自己主張するときのマルクス主義なのであり、現代詩はずっとマルクス主義的に持ちこたえようとしてきたと考えている。このことは、「ことによると今でもそうかもしれない」とさえ彼は考えているのだ。そして、彼は何とかして、詩の「後退局面」を「マルクス主義でないもの」で持ちこたえようとしたと言う。それが、八○年代に「菊屋」という詩の雑誌をやっていた彼の「主観的なモチーフ」だったということである。
だが、それは、瀬尾育生の、まさに「主観的な」モチーフであるために、彼の作品の愛読者であるわしらにとってでさえ、わかりにくいところがある。
瀬尾先生は、まるで、マルクス主義の亡霊と闘い続けてきたかのようである。何もそんなに重要なモチーフに据えてまでムキになって解体しようとしなくても、八○年代には、マルクス主義の影響やパターンはすでに失われていたのではなかったか。現に瀬尾先生御自身が、「ことばの棲かについて」と題した講演(『詩歌句』一九九二年刊誌所収)で、北川透主宰の「あんかるわ」誌が九〇年に終わった理由として「社会主義を支えていた思想や、それに対する世界のさまざまなシンパシーが崩壊して」、「あからさまに資本主義のシステムがすみずみまで貫徹するようになった。」という情勢判断を挙げていたはずである。それなのになぜ今ごろになってまで、彼は「マルクス主義を解体すること」にこだわっているのだろうか。右翼でもないくせになぜそれほどまでに彼は「反マルクス主義者」になりたかったのだろうか。
六○年代末の理由
「自分の理由を語ってよいのなら、それはまちがいなく反マルクス主義だというべき」などと、今では述べている瀬尾育生も、今から三〇年ほど昔の学生時代の一時期には、革マルか何かは知らないけれども、そういう類のものの影響下に活動した時期がほんの少しはあったはずである。「いままででもっとも暴力的な体験は何でしょう」という質問に答えて、こんなことを書いているからだ。
〈夜中に「敵」たちが封鎖解除に取り掛かるならばそれを最後まで防衛しきれるものではないから、窓際にはたくさんのコンクリートブロックが並べられ二階にあるその部屋から敵の頭上にそれを投げ落とすことになっていた。その夜に起こるであろうことを想像したとき、自分の中にそれまで棲みついていた群衆が不意にどっと立ち去ったかのようで、とつぜん僕は怯えた。持ち場を放棄して別の部隊にまぎれこみその夜は近くのもっと堅固な建物に逃げ込んで夜を明かし風邪を引いたのだが、そのことは今にいたるまで消えない、とてもながい心の傷になった。〉
ただ出来事を記しただけのこの文は瀬尾も多少は当時の「大学闘争」に関わっていたのだなということはわかるのだが、その行為に傾いた彼の内的な理由が注意深く排除されているためにまるで抜け殼のような異様な印象を読む者に与えている。これは、すなわち彼がそのようにして七〇年代を過ごしたということなのだろう。ここには「切断」が働いている。彼は、これまでの、自分が「大学闘争」を闘っていたという、彼の行為を支えていた理由を、すっぱりと切っている。それは少なくとも、「マルクス主義」という名辞で説明できるようなものではなかったはずであろう。
彼は、八○年代を詩の「後退局面」と捉え、それを「マルクス主義でないもの」で持ちこたえようとして、「愛知・岐阜・三重あたりに在住する詩人たちのおともだち雑誌」というおもむきを呈していた「菊屋」という雑誌の編集発行に携わったということである。「闘争」の後退局面ということならわかるのだが、瀬尾の言う、詩の「後退局面」というのがなんだかよくわからないところではあるが、いずれにしても、彼の「菊屋」への関わりからは、かつての行為の「理由」をふっきってひたすら軽くラクになろうとするような意識しか読み取れない。こういう事情はたとえば、「菊屋1」所収の彼の詩がよく示している。
「民衆とは恫喝の記号である。どんなむつかしいことばをつかっても、/どうしてもわかりやすくなってしまうので、過去における重い体/験やどっかから借りてきた悲惨によって後光に包んでいっしょう/けんめい複雑にしている語り手はむらさきなのだ。だから/あなたは行ってしまえばいいのですよ。むらさきさえ見たら。」(「そら翔ぶいかもしくはむらさき鎮魂歌」部分)