「パーマネント・プレス 18 1996年8月発行」
文学
パーマネント・プレス 18 1996年8月発行
記事内容
連載B■石川為丸 「瀬尾育生論『逃走する虫』補遺 とめどもない言葉の離散化と 低迷する現在詩」
詩■芝紀子「天国の天皇」 井元霧彦「わたし五十九歳日本国憲法五十歳」 金城けい「ユンヌ」 坂井信夫「裂けめ 17」
瀬尾育生論「逃走する虫」補遺
とめどもない言葉の離散化と 低迷する現代詩 (下)
受身の「虫」 同調する生
瀬尾育生にしても、先の吉田によるオウムとの同類扱いを肯定して、「そういう身体感覚(アンダーグラウンドの世界に生きる植物人間)のところへゆくというのは選択ではないですね。不可避的にそういうところへいってしまう。それはぼく自身からも決して遠くはない。」などと告白してるんだな。
すぐにわしらが思い出すのは、これも数年前の湾岸戦争にふれた瀬尾の「虫発言」である。
「湾岸で虫のように殺されてゆく人々とまったく同じようにわれわれもまた虫だ。」
などと、自分は決して湾岸で殺されることのない安全を保障された大学の机に向かいながら、瀬尾はあっさり言ってのけたのだ。そのとき、彼は、「(戦争に)巻き込まれる多くの人々にとって戦争は圧倒的に荒れ狂う摂理の世界にほかならない。それはたんに戦争の現実ではなく、そのままわれわれの現実の構造そのままなのだ。」
などと彼の世界認識を開陳していた。瀬尾育生は、世界は摂理というものに支配されているので、人間の力量ではもうどうにも手の施しようのないものと考えていたのだ。どんな悲惨な現実にあっても、人はそれを改変する方途を持たず、ただ虫のように受け入れる他はないというのだ。「人間」自体の展望を廃棄、没落させ、意志を持たないあまりにも受身的な「虫」の水準にまで自己を解体している、いわば絶対的無責任の状態。考えようによってはでーじ気楽な位置に彼らは自身を置いていたのだ。「闘争」よりも「現在」のスピードに同調し、どこまでも「現在」を追認する方を彼らは選んだのだ。「自ら変形し、この変形の中に世界の変形をうけとめること」(「トウキョウ、不可知の雲」)、これが八〇年代以降の彼らの生のスタイルだったのだ。60年代末における「帝国主義大学解体」を標榜していた「大学闘争」が切実だったと発言しておきながら、いつのまにか解体するはずだった大学の、助教授に収まっているところなんか、まさに瀬尾の内部でも「世界に対する否定性や異和」が無効になったことを告げているのだ。自ら変形せざるをえなかったということ。ここにおいてもまた例の基本綱領、「育生と世界の戦いでは、世界に支援せよ」が活かされているということなんだな。
確かに既に、現在のわしらの生に届かなくなってしまっている60年代末とか70年代とかのラディカリズムによる「否定性」なるものは、捨てられていいだろう。だが、捨てるばかりで、実は肯定するものも見出だせないまま、言葉の上で悲惨の投げ売りをやっている現在詩人の図は、あまりにも気楽な稼業というしかない。実際、そういう気楽な稼業こそが、いまの世が現実に隠している惨劇を、さらに見えにくいところに放逐し、閉ざす役割を担ってしまうことになるのさ。世界がそうさせるからということで、「不可避的に」、「虫」「植物人間」「キメラ」というところにいってしまった現在詩人の「放棄」の表現は、ただひたすら言葉の離散化に向かうことになる。内閉的に言葉繋ぎに凝っている現在詩人の様相は、端から見れば笑っちゃうような解脱のための奇妙な修行に熱中していた件のオウム真理教の信者のあり様に酷似していたであろう。「現代詩」という「サティアン」の内部で、いい年をした大人がわけのわからぬヘンテコリンなことをやってるぞ、という図。
言葉の離散化 そして秘儀化へ
この鼎談でも、新人の作品に言及して瀬尾は、「ただたんに言い間違えられている、書き間違えられている、という感じ。だけれどもそういう言葉の使い方こそが喚起するエロスの流れがたしかにあるんですね。それが詩を成り立たせている。」
と発言している。この、意識的な言い間違え、書き間違えという、70年代初頭の荒川洋治や平出隆らの現在詩上の先駆的な仕事にも触れた瀬尾の指摘は的を射ている。ただし「エロスの流れ」とまで言ったのはちょと大仰過ぎるのではないか。あるいは瀬尾青生のエロスについての喚起力がそんなにも貧困であるということか(笑)。ともあれ、いい間違えや書き間違えで詩が成立するという瀬尾の指摘は鋭い。実際、彼らにとって「詩作」とは、言葉(意味や語と語の関係)を離散させることでただ不可解なものを現出させるということに賭けられているのである。言葉を抜け殻にする作業を通じて、主体(サブジェクト)を空無化して隷属(サブジェクト)の状態となること。それは、件のオウムの信者が、奇態な修行に励み、自己を抜け殻と化する「解脱」を望み、「尊師」に隷属(帰依)することに喜びを感じているばかばかしい姿と見事に重なってしまうのだ。
すでに、シニフィエとシニフィアンの間にある異質性や、さらには様々な差異から構築される多様な意味が織りなす戯れの偶然効果だけに期待するしかなくなってしまった現在詩は、ますます「現代詩」という「サティアン」の中で秘戯化していくであろう。なるほど、「キメラ的な混淆の世界」とはよく言ったものだ。しかし、そこに横たわるキメラは、決して火を吐くことはない。ただ言葉の抜け殻を吐いているだけである。